阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「会社、休みます。」朝霧おと
新しいカレンダーが冷蔵庫の側面に貼られていた。妻の洋子の好みなのか、数字と曜日だけが並ぶシンプルなデザインだ。子供たちはそれぞれ独立し、専業主婦の洋子には時間がたっぷりとあるはずだか、カレンダーにはこの先一ヶ月の予定の書き込みはない。真っさらなカレンダーを見て、主婦は暇でいいな、たまにはどこかに出かければいいのに、とくらいにしか思っていなかった。
しかし、ある日突然、私はそれを見つけてしまった。一月二十五日の数字の右上に小さくつけられた黒丸を。最初は醤油のシミか、虫の死骸かと思い指でこすってみたが、くっきりと付いた色は落ちることはなかった。私に知られたくないのだ。男? 秘密のにおいがした。
その印に気づいた日から、私は洋子の行動を監視するようになった。そういえば、最近、生き生きしている。おまけに若返ってきれいになったような気も……。いや、気のせいだ。私が会社から帰ってくると、たった今までソファに寝転んでいたのか、頬にクッションのあとをつけたまま、けだるそうに「おかえりい」と言う妻だ。なにかがあるはずもない。そう自分に言い聞かせてみるが、またしばらくすると不安になってくる。二十五日の前日まで私はそんな日々をくりかえしていた。
そしていよいよ当日の朝、私は思い切ってたずねた。
「今日の予定は? 出かける?」
コーヒーを淹れていた洋子の手が止まった。
「どうして? なにかあるの?」
「え、いや、別に」
洋子が出かけるのか出かけないのか確認できないまま、家を出る時刻になってしまった。
バス停でバスを待ちながらも考えることは妻の不貞のことばかり。ぐうたらな洋子にそんな大それたことができるはずもない、いや、あれはわざとだ、私を油断をさせ、そのすきにこっそり男に会いに……。私の手はふらふらと会社の電話番号を押していた。
「すみません、具合が悪くて今日は休みます」
洋子は区役所へ入っていった。もしかして離婚届けをもらいに? 胸がしめつけられて息苦しい。区役所から出てきた彼女をもつれるような足取りで追う。その後、彼女は旅行会社に入り、しばらくして大きな紙袋をかかえて出てきた。その顔はこころなしか微笑んでいるように見える。男と旅行か……。
そしてデパ地下で買い物をしてから、あるホテルの中に吸い込まれていった。その昔、私たちが結婚式を挙げたこのホテルは、私の絶望的な気持ちに反して華やかでゴージャスでまぶしい。
ティーラウンジで妻を待っていたのはひとりの男だった。どこかで見たことがある。
あ、あいつ……。
男の顔に見覚えがあった。確か大学の同級生だといって紹介された記憶がある。あいつの個展があるから、と妻に誘われて行ったものの、芸術家気取りの態度が鼻につき、最初から気に入らない男だった。展示してある絵もどこがいいのかさっぱりわからなかった。
あんな男と妻が……。
柱のかげに身をひそめ、彼らの一挙手一投足に目を凝らした。ホテルスタッフが私に不審な目を向ける。いたたまれなくなり、とうとう逃げるようにしてその場を離れた。
このまま知らぬふりを通すか、妻を問い詰めて白黒つけるか。なにがあっても別れたくない私は、混乱した頭をかかえたまま、夜になるのを待った。
「おかえりい」
やたらテンションの高い妻に迎えられた。
「今夜はシャトーブリアンのステーキよ」
――罪ほろぼしってやつか。
「ジャーン! これ見て、そっくりでしょ」
洋子がもったいぶった様子でかかげたのは、額縁に入った私と妻の似顔絵だった。
「ほら覚えてる? 前に個展をやった西島君。彼に描いてもらったの」
――仲良しアピールでごまかす気だな。
「あとはこれ」
テーブルの上には海外旅行のパンフレットが積み上げられていた。
――不倫旅行の相談にはのれないな。
「旅行しましょうよ。今日、区役所に行ってパスポート用の書類を取ってきたから」
「俺と?」
「当たり前じゃない、あなたじゃなかったらだれとなのよ」
どうやら大きな誤解をしていたとわかり、私はうれしさのあまり崩れ落ちそうになった。
「そんなの無理だよ。か、金、ないし」と言いながらも、借金を頼めそうな顔をあれこれ思い浮かべた。
「大丈夫、お金はある。今日、積立の満期日だったの。へ、そ、く、り」
――洋子、疑ってすまない。ぐうたらでもいい、君は最高の妻だ。