阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「暦に託したこと」獏太郎
還暦を前に、男は自暴自棄になっていた。あと一年で定年という時に、会社をリストラされた。男の知らないうちに、妻が不倫をしていたことを知った。もう一〇年になるという。リストラを機に、離婚を切り出され、同時に息子は不倫相手とは別の男との浮気で出来たことを告げられた。全てを失い、もう何をしても怖くなかった。いっそトコトンまで落ちたろか! と決心した。手始めに泥棒でもして、減らされた退職金の補填をしたる。早速実行や。
方法はネットで調べ、昼間に下調べをして入る家を決めた。集合住宅の一階の部屋だ。目隠しに植えられた樹木のおかげで、手間取っても大丈夫そうだ。
夜が更けた。いい頃合いだ。目的の集合住宅の周囲に、通行人はいない。もう寝ているのか、電気が消えている部屋が多い。緊張しながらガラスを破り、鍵を開ける。音をたてないように慎重に中に入る。
どういうことか。何もない。タンスも食器棚も何もない。あるのは僅かな衣類だけ。
「参ったな」
窓から月明かりが差し込んでいる。今日は綺麗な満月だ。六畳の部屋にはベッドがあり、高齢の女性が静かに横たわっている。少しやつれた感じで、月の光で顔の陰影がはっきりと浮かび上がっている。壁に何かある。
「なんやこれ?」
男は女性の枕元の壁に貼られた紙をじっと見つめる。何か書いてある。横にはカレンダーが貼られている。十三年前の今月のもので、赤丸で囲まれた日付がある。偶然にも今日だ。さらにその横には、茶封筒が押しピンで止められている。男は頭につけていたライトを点けて、書かれた文字を読み始めた。
もしも私がひとりで生活できなくなったら、日用品は処分して下さい。
もしも私がひとりで生活できなくなったら、洋服は一週間分だけ残して処分して下さい。
もしも私に何かあったら、下記に連絡して下さい。緊急時に来てくれる看護師さんの連絡先です。お手数をおかけしますが、何卒宜しくお願いします。
もしもこの家に泥棒さんが入ったら、本当に申し訳ないです。何もない家に入るにも労力は要ったと思います。茶封筒に僅かですが、お金が入っていますのでそれで堪忍して下さい。私の命も残り少なく、お分けするわけにもいきません。気持ちだけですが納めて下さい。
だから、何もないのか。男は女性の顔をじっと見つめた。「はぁ……はぁ」と今にも息絶えそうな呼吸をしている。ベッドの近くには仏壇がある。もしかして。男はライトで照らしながら探しものをした。「これや」と言って手にしたのは古ぼけた過去帳だった。ゆっくりめくりながら、あるページで手を止めた。男は壁に貼られたカレンダーを見る。
「旦那さんの命日、今日やったんやな」
男は過去帳を仏壇に戻し、女性の枕元に座り込んだ。もうあんたは、自分で生活することも出来ず、誰かに世話にならな生きられへんのか。男は呼吸が途切れがちな女性を見つめながら、様々なことを想像した。
「せめて旦那さんと同じ日に死にたいって願ってるんか、あんた」
男は自分が情けなくなった。もう失うものはないと自棄になった自分が恥ずかしくなった。
「なぁ、こんなことやってしもたけど、俺やり直せるかな?」
はぁ。女性が大きく一呼吸した。それはまるで「大丈夫よ」と言ってくれているようにも思えた。それ以降、女性は息をすることはなかった。静かな時間だけが流れていった。
男は上着のポケットから携帯を出し、電話をかけ始めた。五コール目でつながった。
「あっ看護師さん? 夜中にすみません。実は泥棒に入った家の方が息を引き取りまして。何かあったらこちらにって書いてあったんで。それと警察にも電話しておいてもらえませんかね。住所がわかんないですよ。お願いしますね」
男はその場に正座した。物言わぬ女性をじっと見続けた。
「あんたの願い、叶ったで。ほら、日付が変わる一時間や。よかったな、旦那さんと同じ日や。じきに看護師さん来てくれるで。先生も呼んどるやろ」
静かに時間だけが流れている。その沈黙を破るように、外から車のエンジン音と自転車のブレーキ音が聞こえた。