阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ジョーカー切符」多智花くに子
あれ、今日は指が震えていない。パソコンのマウスが楽に動かせる。なぜだ? 十年以上前から震え出した右手は近年、本の頁をめくることすら億劫になるほど不自由で、もちろん文字の手書きはできなくなっていた。唯一使えるのがパソコンだったのだが、それも最近はマウスを持つとぶれが激しく、誤作動をよく起こすようになっていた。今は倉庫内の指令室で急ぎの搬出作業の最中なので、震えがとまっているのはありがたい。パソコン画面に次々現れるファイルを選択して「搬出」ボタンをクリックすると棚から箱が浮かび上がり、倉庫の出口目指して瞬時に移動していく。ん? 虫がパソコン画面にとまったのかと思った。しかしその小さな点はみるみるうちにハガキ大の窓となり、とんがり帽子を被った道化が顔をのぞかせた。
「ごきげんよう。ジョーカーです。何かお手伝いしましょうかね」
「いらん」
この忙しいときによけいなお世話だ。右クリックでジョーカーを小窓ごと「削除」しようとしたが、「削除」ボタンが出ない。と、急に胸苦しくなってきた。息が吸えない。窒息しそうだ。警告音が鳴り、パソコン画面に大きく「ドクターメッセージ」が表示された。
【あと二、三日でバッテリー切れです】
「なんだって?!」
そのとたん、昏倒した。
気が付いたら自宅のベッドにいた。いつの間に帰ってきたのだろう。右手は震え、全身が鎧を着たように重い。鼻にはチューブが挿入され、風を感じる。酸素だ。ムスメが振り向いた。
「よかった。気が付いたね」
「あと『二、三日』ってドクター…」
「聞こえてたの? でも先生の言う通りにしなくていいのよ。もっともっと生きて…」
え? パソコンのバッテリー切れのことじゃなかったのかと言おうとしたら、目の前が暗くなった。ムスメの声が遠ざかっていく。しかし息は少しずつ楽になってきた。暗闇のなかに一か所、ぼんやり明るいところがあった。近づくと本棚が現れた。好きだったアガサ・クリスティーの作品が並んでいる。クリスティーものは長年かけてすべて読んできた。繰り返し読んだものもある。電車通勤していた頃や、小さな孫が家にいた頃、家族で旅行に出かけたときも、クリスティーの作品はいつも手元に持っていた。若くて元気で、何でも自由にできた頃のことが一挙に思い出された。
気が付くと元の通り、パソコンの前に座っていた。
「なあんだ、夢だったのか」
早く作業を進めなくては。先ほどと同じようにファイルを「搬出」させたとたん、箱が柱にぶつかって中身が飛び出した。
「あっ 写真だ!」
空中に散らばったのは、おびただしい数の写真だった。
意外だった。俺が「搬出」させていたのは写真だったのか。それらはまるで陽光に反射する航跡のように煌めきながら、倉庫の出口へ導かれていった。なんだか自分が写っていたような気がした。そのとき、また画面上にできた小窓からジョーカーが顔を出した。
「ごきげんよう。ジョーカーです。何かお手伝いしましょうかね」
今度も「いらん」と言いかけて思い直した。
「俺はそもそも何のために、写真を『搬出』させているのだろうか。それに搬出先はどこなんだろう。今更こんなこと聞くなんておかしな話だけど」
言ってから気が付いた。「搬出先」の表示が画面に出ているではないか。【ゼロ時間】へと。
ゼロ時間だって? クリスティーの作品名と同じだ。
「あなたが『搬出』させているのは写真ではありません。『思い出』ですよ。さあ、これをお持ちなさい」
ジョーカーが小窓からカードを一枚差し出した。表にジョーカーの姿、裏には、「ゼロ時間へ」と書いてあった。
「これは乗船するための切符です。『ジョーカー切符』。どこへでも行けます」
「乗船? 切符? 俺は船に乗らないといけないのか」
「機は熟しました。あなたを船が待っています。」
箱はもはや何も操作しなくても勝手にどんどん飛び去って行き、残り少なくなってきた。
「向こうに着いたら、こっちで積み上げてきたものがすべてゼロに戻ってしまうんだな」
不覚にも声が震えた。
「いいえ、ご安心を。『ゼロ時間』とは出航の瞬間のことです。あなたがこの世で得たものが消えて『無』になるわけではありません。積み込んだ思い出の数々と共に、心ゆくまで旅を楽しんでいらっしゃい」