阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「すれ違い」松元大地
夫との関係は冷え切っていた。夫は私といる多くの時間をスマートフォンを眺めて過ごしている。どうせ、どこぞの女と連絡でも取り合っているのだろう。
現在は、有料無料の差はあるものの、スマホのアプリで、全く知らない男女がネットワーク上で繋がっているような時代だ。夫が念入りなロックをスマホにかけているのを見れば、彼がそれを操作しているとき何をやっているか大体想像は付く。つまらない男。
けれども最近のアプリはまるでゲームのように男女が出会ったりするようなことができるという話しを以前、女友達から聞いた。彼女が使用しているアプリは、なんでもすれ違うと、『いま、**さんとすれ違いました』と報告してくれる、まるで本当にゲーム感覚のアプリだった。私はそのアプリに少し興味を持っていた。
ある日、夫からメールで「納期直前で、今日は帰れない」と連絡が入った。ついに連絡を取り合っていた女と実際に会うということなのだろう。相手の女にもあんな男とどうして会おうかと決心したのか、聞いてみたいくらいだ。
けれども、確かに夫の容姿は悪くないし、社会的地位も高い。どうせ、一番写りの良い写真をトップに載せていて、それに釣られた安い女が、さらにその肩書を見てホイホイと連絡を入れてきたのだろう。くだらない女。
考えるとだんだんと腹がたってきた。私もそのすれ違ったことを報告してくれるアプリでも入れてみようかしら。どうせゲームだと思えば暇つぶしには良いかもしれない。
インストールして、適当なネット上で拾った若い可愛い女性の写真を載せて、プロフィールも適当に書いた。少しわくわくする。こういう感覚は久しぶりだ。
確かに友達が言っていたようにゲーム感覚で面白い。通勤で大きな駅を通り過ぎると、何件も『テンさんとすれ違いました』とか『KAIさんとすれ違いました』と続々と届く。もしかすると今、この電車の同じ車両にこのイケメンなKAIさんが乗っているかもしれない。ちょっとドキドキするじゃないの。でも私のプロフィールは架空のものだから全然平気。
このイケメンがどこかにいないかついつい見回してしまったわ。実際、KAIさんとはほとんど毎日すれ違うからやっぱり同じ電車なのかもしれない。このゲーム感覚、なかなか楽しいじゃない。
でも私が最近、一番気になっているのは、『たぬきさん』なのよね。どうも家が近いのだと思う。たぬきさんとは毎日すれ違っていて、私が朝、夫の七時半の出勤後にアプリを再インストールして起動する。するとそのおおよそ十分後にすれ違う。
つまりたぬきさんは毎朝、七時四十分くらいに私の家の近所を通っているということになる。またこの写真が良い。横顔で全てはっきり見える訳ではないけれども、なんといっても渋い。そしてこのプロフィールの、言葉や表現の選択のセンスには知性が感じられて、また誠実な感じが他の男性たちとは比べ物にならないほど素敵だった。やはり男は三十代半ばよ。
やがて、たぬきさんから連絡がきた。
――はじめまして、こんにちは。キャットさんはいつも同じ時間にすれ違うので以前から気になっていました。僕はあまりご近所さんとはすれ違いたくないので、出勤中の最寄り駅に着いたときにアプリを起動しますが、そこでいつもキャットさんにすれ違います。キャットさんは*駅の近くなのですか?――
それから、しばらくたぬきさんと連絡を取り合っているうちについに、たぬきさんから会いたいと連絡が入った。彼は今度の日曜日に*駅前の喫茶店を指定した。
けれども私は架空のプロフィールを使用しているから会えるわけはなかったし、その喫茶店はタバコの煙たい店だったので私が寄り付かない店だった。
でも、私はどうしてもたぬきさんをひと目みたかった。名乗らないにしてもとりあえず店に行って顔だけ拝見しようか迷っていた。
日曜日の約束の時間前にどうしようかソワソワしていると、夫がちょっと出かけるからと声をかけた。
「どこに行くの?」と私が聞いて、
「駅前の喫茶店だよ。」と答える伏目がちな夫の横顔はたぬきの奴だった。このアプリは半径800メートルでもすれ違うのよ。
そういえば、夫と出会ったのは婚活アプリだったわ。