阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「宇宙船に乗って」吉岡涼
とある任務で地球――夏の日本にやってきた宇宙人のメルは、人間に変身できる能力を持っていた。その力を利用して拠点を作るため、アパートの角部屋を借りた。
全てが順調に進んでいる中、ある日誰かの視線を感じるようになっていた。メルは最初、気のせいだと考えていたが、視線を感じる日は続いていた。
――もしかしたら、隣人に見られているのかもしれない。
メルは人間に正体を知られてしまった場合、任務失敗と見做されて星に帰らないといけなくなってしまう。
そのためメルは一度、隣の部屋のインターホンを鳴らした。人間の姿で挨拶をすることで、灰色の肌をした丸坊主は空見だったと隣人に思わせる作戦だった。
しかし、ピンポーン、と音が鳴るだけで、隣人が出てくる気配はなかった。それからしばらくは、隣の部屋からクポックポッという何の音かわからない音が壁から聞こえてくるだけだった。
――いったい何の音なんだ……。
最初は何の音なのか毎日推理をしていたが、ある日を境にその音も気にならなくなっていた。それは、メルの任務に関係していた。
「よし、ようやくサンプルを手に入れたぞ」
メルの星には海が無い。そのため、メルは 地球の海水を調べる任務を与えられたのだ。海の調査に必要な試験管、スポイト、カメラ、 サングラス、水着、浮き輪を買い揃え、ようやく太平洋の海水のサンプルを手に入れた。
――次は日本海のサンプルを手に入れて、違う海が隣接している国に渡ろう。
地球に来るまで、メルは海に複数の名前が存在していることを知らなかった。名前が違うということはつまり、海によって質が違うのかもしれない。そう考えたメルは、世界中を回る計画を立てていた。 しかし、日帰りで海外へ行けると高を括っているメルに、悲劇が襲い掛かる。
日焼け止めを買っていなかったため、日焼けで肌に痛みが奔っていた。変身を解いてもその痛みは治まらず、メルの任務は先延ばしにされることとなった。
そしてメルはこの時、泣きっ面に蜂ということわざを知る。
隣の部屋から異臭がするのだ。とても刺激の強い生臭さで、匂いで睡眠を邪魔されるほどの悪臭だった。
「海水の臭いに近いと気づき、夏の暑さで腐ってしまったのではないかとサンプルの臭いを嗅いでみるものの、メルの推測は外れた。
――なんなんだこの臭いは……。
謎の視線、隣の部屋から聞こえてくるクポ、クポという音、刺激の強い悪臭と日焼けの痛みにより、メルは寝不足に悩まされていた。
後日、日本海のサンプルを手に入れたメルは、日焼け止めの素晴らしさに感動していた。
このクリームを塗るのと塗らないとでは大違いだった。これで日焼けの痛みに泣く日はなくなり、調査を進めることができる。
しかし、隣の部屋から襲ってくるストレスの原因たちはさらに力を強めていた。
相変わらず視線を感じる日は続くが、今度はギー、ギーという金属が擦れるような耳障りな音が響くようになり、悪臭も強力になっていた。
メルは玄関のドアを開け、もう一度隣の部屋のインターホンを押した。しかし、隣人が部屋の中にいる気配はなかった。
今度はドアを叩き、直接呼びかけてみることにした。
「あのぉ、隣の者ですけどぉ!」
大きめな声をあげるものの、やはり隣人は現れなかった。
諦めて自室の布団に潜るメルの真っ黒な目の下にはクマができていたが、それでも任務のために調査を進めていく決心をした。
だがある日、メルの堪忍袋の尾が切れる事態が発生した。
往復約十五時間かけてオーストラリアからサンプルを入手し、帰宅したメルは翌日の昼まで眠ろうと決めていた。旅の疲れを癒そうと、悪臭に起こされないようにマスクを装着して瞼を閉じた。
しかし、午前七時ごろにメルは飛び起きることになった。カン、カン、カンと何かを叩く大きな音が、隣の部屋からメルを起こしたのだ。
――本当になにをしているんだ……!
怒りに身を任せ、メルはベランダから伝って窓から隣の部屋を覗いた。
そこには宇宙船を直している、タコ型の宇宙人がいた。