阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「隣人X」大河増駆
四月から私はこのマンションに引っ越してきた。前のアパートに比べるとエレベーターがあり、セキュリティーもしっかりしている。
両隣の住人に引っ越しの挨拶をしようと思い立ち、粗品を持って訪れた。左隣は小さな女の子がいる若夫婦で、若い母親は愛想よく迎えてくれた。
しかし、右隣の住人となかなか会うことができない。夜の十時ぐらいに物音がするので帰ってこられたと思って、玄関のインターフォンを鳴らすのだが出てこられない。
一軒家でないから関係が薄いのも仕方がないかと思い始めた矢先のある真夜中、獣の遠吠えがした。慌てて目を覚ました私は右隣から聞こえた気がして壁に耳をつけてみた。獣の低くうなる声がする。
「いったいどういうことなのだ、マンションで動物を飼うなんて」
不安になってきたが、しばらくするとその声は止んだ。
「もしかしたら、テレビの映画でも観ていたのか」と無理矢理自分にいいきかせるようにして床についた。翌朝の通勤電車の中で昨晩ことが気になって仕方がなかった。
三日後の夜、今度は機械音がしてくる。「次はいったい何なのだ」
私はまた壁に耳を当てた。
甲高い男の声がする。
「ついに地球を征服するときがやってきた。我々の仲間よ、ついてこい」
どえらいことになったぞ、これは……、こういうときはどこに通報すればいいのだ……。
その晩は地球最後の日のことを思い、一睡もできなかった。翌朝、早めに家を出てコンビニで新聞を購入し端から端まで読んだが、宇宙人侵略のことはまったく何も書かれていない。その晩のニュースでも大きな変化はなかった。どうしたのだ、宇宙人は地球侵略をあきらめたのか……こんなことをいっても、誰にも信じてもらえそうにない。
私はその日から隣の住人を隣人Xと呼ぶことにした。
三日後、「ガチャン」と物が割れる音で目覚めた。私はおそるおそる壁に耳を近づける。「助けてくれ!」
「今度は絶対に許さないよ。殺して、この恨みをはらしてやる」
女の叫ぶ声と男の悲鳴が重なる。これはすぐに警察に電話しなくては……私は震える指先で携帯の百十番を押した。
「大変です。うちのマンションの隣で殺人事件が起ころうとしています。男女の痴話喧嘩がエスカレートして……」
私は上ずった声で警察官に訴えた。
「すぐに向かいます」
約十分後、パトカーの甲高いサイレンが聞こえ隣のインターフォンが鳴り、玄関が開き警察官が入り込み、話しているのが聞き取れた。
三十分後、私の家のインターフォンが鳴らされたので、応答すると、
「警察です」というのですぐに玄関を開けた。
「この度は通報、ありがとうございます。実はお隣さんは劇団で働いておられる俳優さんでした。今度、劇団で殺人事件を扱う芝居をするということで二人は練習をされていたようなのです。声を落として練習されていたということですが、それが聞こえたようで誠に申し訳なかったということです。近所の方たちに迷惑をかけないように、厳しく話をしておきました。ご迷惑をおかけしました」
私は深く頭を下げ、警察官の労をねぎらった。
そうか隣人X は劇団員だったのか……。
これですべての合点がいった。動物のうなり声、宇宙人の地球侵略、男女に痴話喧嘩、すべて劇の練習だったのか……私の心が和んでいく……その晩はここ数日眠れなかったせいか、深い眠りに落ちることができた。
三日後の晩、壁を激しく打つ音で目が覚めた。
「いったい何の音なんだ。今度は何の練習だ」
私は叫びたくなった。
壁をたたく音がどんどん大きくなり、近くにあった本棚の本が落ちるほどの衝撃が広がる。
壁の一部に亀裂が生じ、ポロポロと漆喰が崩れ落ちた。小さな穴が開き始め、こぶしぐらいの大きさにまでなった。
その穴の向こう側から大きな目玉がこちらの様子をうかがっている。
私は後ずさりしたかったが、恐怖で体が動かない。
やがて、穴から先端が二つに割れた真っ赤な舌のようなものが、ひょろひょろと伸び出し、私の顔をなで回し始めた。
「隣人Xはいったい何者なのか……」
そんな問いが頭の中を駆け回り、私の意識は少しずつ遠のいていった。