阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「飛行機の中で」大町はな
魂が抜ける時って、それはもうすごい速さなんだと思うの」
離陸直前の飛行機の中で、隣り合った女性がふいにそんな事を言った。
「えっ」と私が聞き返す間もなく、ボボボ……と低い音がしてスピードが上がり、お腹にぐっと力が入る。そうしてじわっと身体がしびれたと思うと、ふわりと機体が浮き上がり、うっすらと尿意が襲った。
「ちょうど、こんな感じ。飛行機が飛ぶときと同じくらいの速さね」
隣人はにこにこと笑いながら、見知らぬ私に話し続ける。
「一生の思い出って、ものすごい数だけあるじゃない。それこそ、ジャンボジェットに満員の人が詰まっているみたいに。だから、それだけ重たい物を飛ばすには、スピードが必要なのよ」
私はぽかんとした顔で、はぁ、と相槌のような息を吐くしかなかった。しかし突然声を掛けられたというのに、不思議と気味の悪さはなく、何故か疎遠になった友達と再び再会したような親近感を覚えた。年恰好が自分と似ていたせいもあるが、彼女が身に着けていたブローチに見覚えがあったのが、一番の決め手だろうと思った。
「素敵なブローチですね。私、小さい頃からそういうモチーフが好きで、よく集めているんです」
彼女の胸元には、透き通ったべっ甲に縁どられた女性の横顔が光っていた。
「母からもらった、カメオのブローチなの。友達にはよく『古臭いわね』なんて言われるんだけど、やっぱりこれ、可愛いでしょう」
真っ白なコットンブラウスの胸元に、ブローチはこの上なくしっくりとおさまっていた。それにベージュのスカートを合わせ、頭にえんじ色のベレー帽をかぶった彼女の姿は、古臭いどころかとてもおしゃれに見えた。
「私のアンティーク趣味も母譲りなんです。なんだか奇遇ですね」
好みの合う人間に出会うと、どうしてこんなに胸が高鳴るんだろう。私は途端にうきうきした気分になり、自分が真っ黒なスーツを着ている事が急に恥ずかしくなった。
「普段はあなたみたいな可愛いお洋服を着ているんですよ。でも、さっきまで仕事だったからこんな恰好で……。私もそんなブローチを持っているから、是非見て欲しかったわ」
初めて出会った事などすっかり忘れて、私はこの新しい友人と色々な話をした。同郷だとわかってからは、好きなブランドの話や、どんなお店で服を買うのか、最近見かけた猫が可愛かった話など、どうでもいい話題まで花が咲いた。驚く事に、彼女の好みは私とまるっきり同じで、喜怒哀楽のポイントまでそっくりだった。私は彼女の事がたまらなく好きになり、携帯電話を握りしめ、再会の約束を切り出した。
「ねえ、私達ってとっても良いお友達になれそうじゃない? よかったら連絡先を交換しましょうよ。今度はカフェでお茶でもしたいわ」
だが、彼女はそれを断った。
「ごめんなさい。私、これからとても遠いところにいかなくちゃいけないの。きっともう、こっちには戻らないと思う」
そうして、とても残念そうな顔をしながら薄く笑い、「ありがとう、美香」と囁いた。
「どうして私の名前を知っているの?」
私は驚いて尋ねたが、はっと気が付いた。私の持っているブローチは、母が祖母から貰ったものだったのだ。
ベルト着用のランプが点滅して、窓の外がゴオオッと鳴る。それからタイヤの擦れる音がして、飛行機は故郷の空港へと着陸した。ガヤガヤと乗客達が立ちあがり、次々と出口へ吸い込まれていく中で、彼女はすっと立ち上がり、あっという間に人波に紛れて消えてしまった。
「バイバイ、お母さん」
握ったままだった携帯が小さく震え、私は母の訃報を知った。