阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「穴があったから落ちてみた結果」小塚原旬
「それで、つまりそのウサギを追っていたら、大きなウサギ穴に落ちたということですね?」
「そうよ」
ドクター・ジェームスはカルテと、患者から聞きとった証言のノートを、真剣な表情で見比べていた。既に5回目の診療であったが、これまでに一切の食い違い、矛盾点は見つかっていない。
一方、アリスはドクターがちゃんと話を聞いてくれるので、この診察の時間が大好きだった。ウサギ穴に落ちて、その下に広がっていた広大な不思議な世界の冒険の話を、今まで誰一人まともに取り合ってくれなかった。ウソつき呼ばわりされたり、可愛そうな人なのだと憐れむような視線を向けられることも少なくなかった。
でもドクターは違った。
若くて優秀で、そして飛び切りハンサムなこの精神科医は、アリスの瞳を真っ直ぐに見つめ、アリスのことをバカにしたり、疑う様子も見せずに話を聞き続けてくれた。その上、アリスの冒険譚を詳細にノートに記録してくれている。
「あーあ」
「どうしたんです、アリスさん?」
「みんながドクターのように、ちゃんと私の話を聞いてくれればいいのに。そうすれば、すぐに私がウソつきなんかじゃないって分かるのに」
唇を尖らせたアリスに、ドクター・ジェームスは優しく微笑みかけた。
「ボクはちゃんと聞きますよ。だから安心して下さいね」
その顔をぼーっと見つめていたアリスが、もじもじしながら聞いた。
「ねえ、ドクターってガールフレンドいるの?」
「僕かい? ああ、いるよ」
「あら、妬けちゃうわ。でもさ、いつまでもずっと付き合っていけるわけじゃないでしょ?いつかはきっと別れるわ」
「どうかな?」
「きっとそうよ」
「そんなことになったらどうしよう」
「あら、野暮なこと言わせないで。その時は私があなたをお婿さんにしてあげる」
「君がかい? 君は今、いくつだっけ?」
「七歳よ。でも、だからって子ども扱いしないで欲しいわ」
「勿論だ。君は立派なレディだ」
「ふふふ、ドクターは紳士ね。そういうところも素敵よ」
ドクターは決して自分を否定しないことを、アリスは知っていた。だから何でも話せた。
「穴から落ちて、どれくらいでその世界に着いたの?」
「ぴったり一時間よ」
「間違いない?」
「間違いないわ。時計を見たもの」
「そう……」
これまでの記録と、そこも矛盾はなかった。
ドクター・ジェームスはそろそろ、今日の診察をここで切り上げようと考えた。
「アリス、君の話はとても興味深くてエキサイティングなんだが、終わりの時間が来てしまったようだ」
「え、もう?私、もっとドクターとお話していたいのに」
「ごめんね、そろそろ次の患者さんの診察の時間なんだ」
「しようがないなぁ。じゃあ、またね!」
アリスは軽い足取りで診察室を出て行った。
ジェームスは深く溜息をつくと、頭をぼりぼりとかいた。アリスと入れ違いで入って来た若い女性看護師は、ジェームスににっこりと微笑みかけると、囁くように聞いた。
「いかがです、あの患者さんは?」
ジェームスは困った顔で答えた。
「まあ、話す内容に矛盾はないし、何度同じことを聞いても、一切ブレることはない」
「じゃあ、全て真実だと?」
「いや、例えば地球を貫通する穴を空けたとするね?そこから自由落下をした場合、その穴がどんな長さだろうと、どんな方向だろうと、重力の作用によってその穴を抜けるのにかかる時間は必ず42分になるんだ」
「首尾一貫した妄想だということですか?」
「そういうことになるかな」
「治療には時間がかかりそうですね」
「そうだね。でも一番の問題は、だ。あのおじさんが自分のことを七歳の少女だと思い込んでいることだな」