阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「穴のあいた世界」白浜釘之
穴は忽然と現れた。
マスコミが一番最初にそれを伝えたのは、ある歌手のコンサート会場での出来事だった。
舞台袖から出てきた歌手が往年のヒット曲を歌おうと舞台中央に立ち、客席に向かって頭を深々と下げた瞬間、舞台上に忽然と現れた穴に吸いこまれるように落ちていったのだ。
会場は、まずはじめに驚きに包まれ、次に大爆笑に包まれた。
これはその歌手が、バラエティ番組にもよく出演し、コメディアンとしても活躍しているためで、観客もおそらく『歌う前にいきな 舞台にできた穴に落ちてしまう』という彼のギャグだと思ったからだ。
しかし、おおかた彼が再び頭に大袈裟な包帯でも巻いて愛想を振りまきながら現れると思っていた観客たちも、いつまで待っても彼が現れないのでざわつきはじめた。ついには主催者から歌手の突然の失踪とコンサート中止が告げられると会場は騒然となった……。
これが『穴』についての最初の報道だった。
これだけならば、舞台の演出に乗じて失踪した歌手のゴシップに過ぎなかったが、同様にいきなり地面に空いた穴に落ちて忽然と姿を消した人が全国で、そして全世界で存在したことによりこれは個人的な事情ではなく、世界同時多発的に起こった超常現象である、とわかったのだった。
さっそく様々なメディアでこの現象を解明すべく様評論家や科学者が呼ばれ、色々と解説を行ったが、結局のところ何一つ明らかにされることはなかった。
もちろん各国政府もすぐに手を打った。
何しろ多い日には世界で数千人単位で人間が忽然と消えるのだ。 様々な研究機関もこの問題に取り組み、『穴』が現れる 地域、時間をはじめ穴に吸いこまれた人の人種、年齢、身体的特徴から果ては信教、政治的思想、好きな異性のタイプまで調べ上げたが、これも何らの統計的な偏向は見いだせなかった。
悪人こそ穴に落ちる、と主張し急速に広まった宗教団体もあったが、その教祖が集会での説法中に穴に飲まれたことであっさりと解散してしまった。
科学で追及するには不条理過ぎ、オカルトで扱うには現実的過ぎるこの現象は、最初の数か月間は社会や経済に様々な混乱を与え、人々をパニックに陥れたが、やがてその狂騒が収まると、人々は『穴』を静かな諦念を持って受け入れ始めた。
たしかにいきなり現れては問答無用に人間を消してしまう『穴』は怖ろしいけれど、一日 に穴に飲みこまれるのは、国内であればせいぜい一日数人程度であって、おそらく自分は大丈夫だろう……そんな考えが人々を支配するようになった。
やがてインターネットで『穴』の向こうに行ったと称する人の書き込みが増えてくるようになった。
彼らによれば、穴の向こう側にも世界があり、それは、真っ白で何もない世界であったり、こちらとほとんど同じような世界であったり、あるいは争いのないユートピアのような世界であったり(彼によれば、ある日戦争のニュースを見て、「ああ、元の世界に帰ってきたんだな」と思ったらしい)したそうだ。
さらに、『穴』に飲みこまれた時の詳しい状況も彼らは克明に記憶しており、それによると穴に飲みこまれる際には一瞬 世界が揺らいでいるような眩暈を感じて、気がついたらそこはすでに『穴』の向こう側の世界だったという。
『穴』はそうやって人々に受け入れられ、社会の一部になっていくとともに、情報として消費されて、しまいにはあまり関心を抱く人もいなくなってしまった。
そうして気がついた時にはとうとうすべての媒体から『穴』に関する記述は失われてしまった。そして新しい『穴』に関するニュースも一切流れなくなった。
現れた時と同様に、いつの間にか『穴』は忽然と消えてしまっていたのだった。
そのことを他の人に話しても誰一人として『穴』の記憶を持っている人がいなくなってしまったていたのだから、人の記憶にも『穴』があいてしまったのかもしれない。
イライラして、記憶をなくした人達を殴りつけていたら、突然数日前に道を歩いていた際に眩暈を感じたことを思い出した。
そうか、あの時に私はおそらく『穴』に落ちたに違いない。何で気が付かなかったのだろう。このこの世界は一週間が十日ではなく七日だし、世界には十五か国どころか百数十か 国も存在しているのだ。
しかし、「この世界には元から『穴』など存在していないのだから、どうやって私は元いた世界に返ればよいのだろうか? それ以前に、まずこの鍵のかかった精神科の病室からどうやって抜けだせばよいのだろう。
誰か教えてはくれないだろうか。