文章表現トレーニングジム 佳作「峠の女」古垣内求
第15回 文章表現トレーニングジム 佳作「峠の女」古垣内求
三十代のころ、私は紀伊半島の漁師町で、タクシーの運転手をしていた。忘れもしない旧盆の前日だった。深夜に隣町まで乗客を運び、帰りは空車のまま、峠越えの近道を走っていいた。
夕方からの雨が一段と強くなり、車を叩く雨音が車内に響いた。山道を登り終えると、トンネルだった、トンネルを抜けると、曲がりくねった下り坂となっている。時計を見ると二時。スピードを緩め注意をしながら下っていく。
前方に動くものが見える。
(イノシシか)
ブレーキを踏み、車を停めて窓を開けた。
若い女が傘もささずに、ずぶ濡れのまま立っている。
「どうされました?」
「道に迷って。駅まで送って下さいませんか」
私は、彼女を後部座席に招き入れた。青白い顔で下を向いたまま顔を上げない。駅に着くまで、何を訊いても返事しなかった。
「着きましたよ」彼女は俯いたままで、千円札を差し出した。私は両替のために駅へと走った。車に戻ると彼女が居なかった。車の窓から改札口を入る彼女の姿が見える。追いかけたが見失った。
座席に落ちていた名刺で、公衆電話から彼女の家に電話した。母親らしい女性が電話口に出た。沈黙のあと、「娘は三日前の深夜、峠のカーブで車に撥ねられて亡くなりました」
私は受話器を握りしめ、電話ボックスの中で震えていた。