阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「虹色のバス」村山むら
先生、病院の外に、虹色のバスが来てますよ。ああほら、もうあっちの病棟の、屋上に着きそうだ。昨夜はもうちょっと上の方にいたんですけどねえ。きっと、病院に停留所があるんで降りてきたんでしょう。先生、あのバスはどこ行きなんでしょうか。
診察に来た若先生におたずねしたら、「せん妄です。睡眠薬を出しておきますから」と言われました。
はて、せん妄とはなんでしょうか。
よくわかりませんが、その晩から、私は夢を見ることがなくなりました。寝て起きると、もう朝です。ひどく疲れて、なんだか無性に悲しいのです。
虹色のバス、あれは夢だったのかもしれません。それか、もう病院の停留所を過ぎ去って、違う場所に行ってしまったのでしょう。
「ねえ、おうちに連れて帰りましょうよ。かわいそうよ、おじいちゃん」
あれま、武弘の嫁の正子さんが怒っています。どうしたんでしょう。
「こんなに『家に帰りたい』って泣いているのよ。退院させて。最期くらい、自分の家で過ごさせてあげたいわ。あなた息子でしょ」
「そうは言っても、病院にも入れてやらないのかって、親戚から文句言われるぞ」
「あなた親戚と父親とどっちが大切なの」
正子さんはしっかり者ですが、ちょっと気が強すぎます。嫁姑じゃあ、ずいぶん私も武弘も苦労しましたよ……あれ、美枝子はどうしたかな。
美枝子は?
「おばあちゃんは、もう亡くなったのよ。おじいちゃん、すぐ忘れちゃうんだから」
鈴を転がすような、美しい声が降ってきました。横を向くと、女の子が座って、笑いながら私の手をもんでいます。ああ、あったかいなあ。お嬢さん、ありがとう、とても気持ちいい。
「お嬢さん? あはは!」
エプロンを顔に当てて大笑いをしています。いいなあ。あなたが笑うと、私も笑いたくなるなあ。
あなた、もしかして、美枝子じゃないか? 美枝子もよく笑う女でしたよ。
「ずいぶんよく寝るな。赤ん坊みたいだ」
そういえば、弟のタケオも寝てばかりいる赤ん坊でした。学校から帰ってきたら、おんぶして、裏の川に遊びに行ったなあ。
あの川はどこだ?
いや、あの家はどこだ?
タケオはどうしたんだっけ?
ああ、よく寝た。でも夜中に目が醒めるのは、年のせいでしょうね。
そうそう、昨晩は、久しぶりに虹色のバスが来てましたよ。こうやって家で寝ていても、夜空を渡る虹色のバスが見えるのは、なんででしょう。不思議だねえ。
「虹色のバスだなんて、ロマンチックな夢ね、おじいちゃん」
やっぱり夢ですか。
いやいや、夢じゃありません。
ほら、来ましたよ、虹色のバス。今、庭に着きました。風が吹いて、ヒヤッとしました。上着がどこにあるかわからないから、パジャマのまま、庭に降りましょう。
庭にはぎんなんの匂いが立ちこめています。ということは、秋なんですね。前に庭に降りたときも、ぎんなんを拾いました。武弘が一生懸命拾いました。臭い臭いと文句を言ったのは、誰だ?
ああ、私かもしれません。
銀杏の木の下に、虹色のバスは停まっています。となれば、ここが停留所で、私が乗客でしょう。
「兄ちゃん!」
「タケオ!」
会いたかった、とても会いたかった!
まさかおまえがバスを運転しているとはなあ、ちっとも知らなかった。ああよかった、会えてよかった。
「僕も会いたかったよ、ようやく会えたよ」
黒い砂まみれの顔で、タケオが笑うものですから、私はパジャマの袖で砂をぬぐいとってやりました。タケオの顔はみるみる白くなり、まるで女の子のような二重の目と形のいい眉、薄いピンク色をした唇が現れました。
そうです、そうです。
タケオは小さいながら相当の男前でした。不義の子ではないかと村で噂されたくらいの美男子です。川にはまって死んだ時も、まず顔をきれいにしてやりました。
「もういいや。早く乗ろう」
タケオが乗り込んだので、私も後を追いました。私は、これ以上ない満ち足りた気分であります。ああ、この気分を言葉に表さねばなりません。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。