阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「福丸」秋あきら
母との電話を終えた律子は、首を傾げながらリビングに戻った。その様子に、夫も眉間に皺を寄せた。
「お義母さん、今度は何だって?」
「うん… 明日来るとき、リードとハーネスを買ってきて欲しいって」
「昨日は室内ゲージだったよな」
律子は頷きながら、大きなため息をついた。
律子が、遠方で一人暮らしをしている母の多美子に犬の人形を贈ったのは、先月の事だ。米寿の祝いの品だった。ゴールデン・レトリーバーの子犬を模したもので、毛並みが本物そっくりの質感というのが特長だった。だからどちらかというと、人形というより、ぬいぐるみに近いかもしれない。
多美子は元々犬好きだった。実際、子供の頃は犬を飼っていと聞く。けれど、律子の父は犬が大の苦手だった。何度か律子と二人して、犬を飼いたいと願い出たことがあったが、その度に猛反対された。
律子が幼い頃やっていたテレビのドラマで、主人公がゴールデン・レトリーバーを飼っていた。母はその犬見たさに毎週ドラマを欠かさず見ていたことを今でも覚えている。
十年前、父が亡くなった。てっきり犬を飼うだろうと思っていたのに、母はずっと一人で暮らしている。それとなく聞いてみると、飼いたい犬が見つからないからという煮え切らない返事が返ってきた。母のことだ、父に遠慮しているのかもしれないと思った。もしかしたら、年老いたせいで生き物の世話が面倒になったのかもしれない。だったら、人形の犬でも傍にいればどうかと常々考えていた。
律子の予想通り、多美子はその贈り物を大いに喜んでくれた。人形が届いた日、嬉しそうな声で電話がかかってきた。
『かわいいねぇ、ずっと触っていとうなる』
母の元気な声を聞いて、律子はほっとした。あの犬が、年老いた母の話し相手になり、心を癒す存在になってくれれば安心だ。
しかし、それから多美子は二日とあけず電話をかけてくるようになった。
『名前をね、つけてあげたんよ。福丸、いうんよ。いい名前でしょう?』
『毎晩一緒に寝とるの、あったかいんよ』
おかしいと思ったのは、それから更に二週間程経った頃だった。
『ドッグフードとトイレシートを買って、送ってくれん? ほら、あの大きいペットショップ、さすがに隣町まで行くのは難儀だし』
律子は驚いて聞き返した。
「ちょっと、お母さん。それ、どういうこと?」
『どうもこうも、福ちゃんの餌に決まっとるでしょう。嫌やわあ、この子言うたら』
「何、冗談言っとるん、あれは人形、ぬいぐるみの犬やないの」
すると母は烈火のごとく怒りだし、収集がつかなくなった。仕方なく律子は折れた。
母は、ボケたのだと思った。夫に相談すると、認知症の場合、頭ごなしに反対するのは返って逆効果だと言う。とりあえず話を合わせておいて、一度様子を見に帰ってはどうかということになった。
そして明日、律子は実家に帰ることになっていた。今まで母に頼まれた品は、全て明日持っていくという段取りになっている。
「しかし場合によっちゃあ、施設も考えないといけないかもしれないぞ。ほら先週、お義母さんの友達が怪我をしたって言ってたじゃないか。その人も一人暮らしだったんだろ?」
「ええ… お母さんの話だと野良犬に噛まれたって言うんだけど、よく分からないの…」
夫と話しながら、律子は、さっきの母との電話を思い出していた。電話の向こうで母は、念願の夢が叶ったと大喜びしていた。
『あんた、覚えとる? 昔やっとったドラマで、福ちゃんそっくりな犬が出てくるの』
「ああ、あれね」
『私はあれに出てくるような犬がずっと飼いたかったんよ。それが夢やったの』
だからあの人形の犬を贈ったのだという言葉を、律子は飲み込んだ。
その時、犬の鳴き声が聞こえたのだ。最初は、それこそテレビでもついているのかと思ったが、とことこと走り回る足音や、息遣い、母に叱責されて出した甘えた声、それら全てが受話器越しに生々しく伝わってきた。
『早くあんたにも、この子を見てもらいたいわ。明日が楽しみや、ねえ、福ちゃん』
そしてまた犬が吠えた。
その時、思い出したのだ。あのテレビドラマのことを。あれは、夜な夜な人形の犬が動き出すというホラーだった。夜になると、ご主人様を虐めた人達の夢の中に入っていって仕返しをするという話だった。夢の中で犬は、すこぶる狂暴だった。噛みつかれた傷は、翌朝本物のそれとなって残っているのだ。
そしてあの人形の犬が動き出したことを、律子も、もう分かっている。