文章表現トレーニングジム 佳作「花香の人」 中村実千代
第8回 文章表現トレーニングジム 佳作「花香の人」 中村実千代
花の咲き乱れる庭を歩くと、彼女の家族の優しさが胸に溢れてくるようだった。
階段を一段ずつ上るとき、初めに何と言おうかと心に迷いが起きた。答えの出ないうちに彼女の寝室に着いてしまった。
ベッドに横たわるHさんは満面の笑みで迎えてくれた。その顔には深刻な病の影はまったく見えない。
「お忙しいでしょう。ありがとうございます」
人に気配りをするところは以前のまま。ベッドから出られなくなってもなお、他人に細やかに気を遣う。その優しさがたまらなく切ない。
すでに食べ物を体内に入れられなくなって一年が経つという。勧められた珈琲はどうしても飲めない。かぐわしい香りさえ、煩わしかった。
帰るとき、私の出した右手にそっと右腕を伸ばした。パジャマの袖がめくれて、細くなった白い腕がのぞいた。動揺を悟られないように作り笑いでごまかした。
その半年後、苦しい闘病生活を二年半過ごした彼女は五十年の生涯を静かに閉じた。あとには、中学生の一人娘とご主人が遺された。「会いたい」と言ってきたHさんは、私に永遠の別れを告げたかったのだろうか。花の精のような女性だった。
墓に手向けられたフリージアの花香は、いまも私の周りでほんのりと香っている。