佳作「新月の夜に 西方まぁき」
うまくいくかどうかわからないことは、満月の夜にやるといいよ。
アル中で死んだ母が、生前、呟いていた。
間違っても、新月の夜なんかに女を口説いちゃいけないよ。
煙草をくわえ、ズボンのポケットに手を入れる。
ライターと、触り慣れないビロードの小箱の感触を人差し指で確かめる。
受けとってくれるだろうか。
不安を吐きだすように空に向かってふぅと煙を吐いた時、初めて、新月の夜だったことに気付く。
夜風がワイシャツの襟元から容赦なく吹き込み、ブルッと身震いする。
カン……カン……
非常階段をのぼる疲れたハイヒールの音がきこえる。
踵を踏み外すガリッという音がする度に不機嫌な舌打ちがきこえる。
すぐ下の階の踊り場で音が途切れる。
「もうムリ……そっちが下りて来てよ」
階段と階段の間から彼女がマスカラが滲んだ目でオレを見上げている。
髪を手で撫でつけ、煙草をくわえながら、カンカンカンカンとリズムをつけて階段を下りると、踊り場に座り込む彼女が捨てられた猫のようにオレを見上げていた。
「タバコちょうだい……」
ワイシャツの胸ポケットから煙草をとりだし、紅が禿げた唇に差してやる。
涙のあとがついた白い頬を両手で包み、煙草の火を近づける。
甘ったるい香水と酒の匂いの中で彼女の煙草に火が点いたのを確認して頬から手を離す。
彼女が煙を吸いこみ、店でされたであろうイヤなことを吐きだすように、夜空に向かってふぅと煙を吐く。
「パンツ見えてるぞ」
ミニスカートの裾を直すでもなくヘラヘラと笑っている。
非常灯に照らされた痩せた太股が痛々しい。
細い肩を抱き寄せたい衝動をおさえ、再び膝を折り、顔を覗き込む。
「大丈夫か」
一瞬、彼女の瞳から何かが溢れそうになる。
暫く見つめ合った後、沈黙を破るように彼女が不自然な笑い声をあげる。
「大丈夫って、なぁに、それ……」
意味わかんないと言いながら、ぐにゃりと折れ曲がった体をたて直すように手すりに捕まり立ちあがる。
ハイヒールがぐらりと揺れ、足元にタバコが落ち、下に落ちそうになる寸前、彼女の腕をつかむ。
気がつくと、抱きしめていた。
これ以上力を入れたら壊れてしまうのではないかと思うほど華奢な体がたまらなく愛しい。
「なぁ、オレと……、けっ……」
ワイシャツの胸に顔を埋めたまま、遮るように彼女が呟いた。
「三億」
「え……?」
「私の借金……」
一瞬、頭が真白になる。
オレを突きはなすように体をはなし、必要以上にヒールに体重をかけて彼女が階段を下りて行く。
カン、カン、カン、カン……
引き留めたくても、伝えたい思いを言葉にすることができない。
カン、カン、カン、カン、カン……
待ってくれ。
咄嗟にズボンのポケットの中の小箱を掴む。
蓋を開けてバーテンの給料一カ月分で買ったプラチナリングを取り出す。
「おい……!」
一瞬、彼女の足音が止まる。
「これ……」
差し出した手から指輪が滑り落ち、カーン、カーンと弾みながらオレのかわりに彼女を追いかけて行く。
彼女が立つ階のすぐ上の階の踊り場で何かにぶつかってクルクル回り、チャリーンと音をたてて止まる。
彼女が寂しげに笑い、逃げるように非常口の扉を開け、店から漏れる大音量のBGMの中に吸い込まれていく。
すべてを拒絶するようにバタンと扉が閉まった後、痩せた月を見上げ、もしも満月の夜だったらと、少し後悔した。