佳作「仕草は語る 皆川あすか」
土曜日の夕方。香奈子は駅東口向かいの喫茶店の窓側に座っている。初老の男性が経営している小さな店にはコーヒーのいい香りが漂う。店内の壁掛け時計はちょうど午後五時を指している。カウンターテーブルに肘をついてスマートフォンをいじる眼鏡の男性や、買い物袋を横に置いてコーヒーで一息つく中年女性、小さい子どもと仲良くケーキを分け合う若い母親。落ち着いた雰囲気の中で、香奈子だけが強張った表情で目の前のコーヒーを見つめている。百五十万円の現金が入った黒いハンドバッグの持ち手を掴む手の平は、じっとりと嫌な汗をかいている。香奈子は少し顔を上げて再び店の壁掛け時計を見た。時間は五時十分。待ち合わせ時間まであと二十分だが、香奈子は百五十万円の行き先をまだ決められていない。
恋人の健吾は元々、香奈子が勤める会社に出入りしていた保険の営業マンだった。出入りの営業マンと言えば普通は鬱陶しがられる存在であるが、彼の豪快な笑顔と逞しい体つきに好感を持った女性社員は多く、もちろん香奈子もその中の一人だった。だから五才年下の彼に食事に誘われたときの香奈子は天にも昇る気分だった。三十代後半になり結婚をほぼ諦めていた香奈子にとって、まさに最後のチャンスのように思えた。
実際、健吾との交際は本当に楽しいもので、男性との交際経験が乏しい香奈子には何もかもが新鮮だった。独立して自分で保険代理店を開業したいという彼の夢も心の底から応援していた。だが先週になって健吾から独立資金のために借金を申し込まれたとき、香奈子は体温がすっと下がる思いがした。心臓がキュッとなって急に息苦しくなり、健吾に異変を悟られてはいけないと焦った。香奈子は若くて見た目も良い健吾がなぜ自分を選んだのかとずっと疑問に思っていたのだが、ひたすら蓋をして見ないふりをしてきたその懐疑心が健吾の借金の申し出で一気に溢れ出てしまったのだった。健吾は香奈子の変化には全く気付かずに申し訳なさそうに借金の言い訳をしていたが、断られることなど予想もしていなかったのか、なかなか良い返事をしない香奈子に次第に苛立ちを感じ始めたように見えた。見たことのない冷ややかな目つきで明後日の方向を見る健吾に、香奈子は咄嗟に給料日まで待ってほしいと言ってしまった。健吾が自分のもとを去ってしまうのが怖かった。
そして今日が金を渡す約束の日なのだが、香奈子はまだ迷っている。左腕の華奢な腕時計は五時二十分を指しているが、待ち合わせの駅東口へ向かう勇気もでない。落ち着かなくて両手でコーヒーカップを包んでみても、もうコーヒーが冷めきっていることを確認できただけだった。深呼吸して顔を上げて窓の外を見ると、ちょうど健吾が東口に着いたところだった。黒いキャップを被って、腕を組んで壁にもたれかかっている。香奈子はガラス越しに見える十メートル先の健吾の姿から目が離せなかった。
香奈子はしばらく健吾を見つめていた。駅前の時計で五時を三分過ぎた頃、健吾が自分の腕時計で時間を確認した。壁に背中をもたれたまま気怠そうに左腕を上げて、横目で時計を見てから乱暴に腕を下ろす。恋人を純粋に心待ちにする男の姿ではなかった。ああダメね、と香奈子の口から言葉が漏れる。不機嫌そうに眉間にしわを寄せて空を見る健吾の顔に香奈子は全てを悟り、そのまま窓にゆっくりと背を向けて席を立った。不思議と涙はこぼれない。マスターにコーヒー代を払って店を後にした香奈子は、一度も後ろを振り返らなかった。