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佳作「影男 どろにんげん」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第14回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「影男 どろにんげん」

真夜中、空に満月が浮かんでいる。一匹の猫が路地裏から出てきた。猫はすばやく路地の角に消えた。

おや、あれは何だろう。今、猫が曲がったのとは反対側にスーッと地面をはって走り去ったものは。影だ。猫の影はそのまま一直線に道の反対側にある古本屋のシャッターのすきまへとするりともぐりこんでいった。

ここはどこにでもある古本屋。だが夜になると、どこにもない空間へと変わるのだ。影が立ち寄る古本屋へと。影たちはここで本の中にすべりこみ、その中のストーリーを追体験できるという。

ズルッズルズルズル。また客が現れた。

「おう、またペラ坊じゃないか。こう頻繁に来るのを見ると,よっぽどたまっているらしい。ところで今日は何にする?」店主はニヤリと笑って言った。

「とびっきりのミステリーをたのむよ」ペラ坊はそう言って、はーっと深くため息をついた。ペラ坊は、この店の常連客だ。彼の宿主は冴えない五十代半ばのサラリーマンで、自分よりだいぶ若い上司に毎日叱責されている

ペラ坊はこの宿主の影になってまだ三カ月もたっていないが、よほどストレスが溜まっているせいか、すっかりやつれてしまっていた。

「影が薄いとはまさにこのことだな」店主は得意げに言った。

「それが客に対していう言葉かい? まったくやってられないよ。やつの愚痴にはもう耐えられん。営業車の中で独り言だぜ。まったくこっちはたまったもんじゃない。聞くのは俺一人だからな。俺はこの頃毎日祈ってるんだお願いです。おてんとうさま、今日はどうか姿を現さないでくださいってね」

ペラ坊が愚痴を言っている間、店主は店の奥の本棚から一冊の本を持って戻ってきた。

「こんなのはどうだい。これなら短編だから二、三時間もあれば戻ってこられる」

ペラ坊は店主の差し出したミステリー小説のタイトルを覗き見た。

「『完成された名画』。ほほう、おもしろそうなタイトルだ。なんたって、あんたが選ぶのはどんなジャンルだって、はずれがないからなあ。さあ、早く開いてくれよ」

ペラ坊は満足そうに言うと店主を催促した。「じゃあ、さっそく行ってくるよ」ペラ坊は、鼻歌交じりに颯爽と本の中にすべりこんで行った。

店にはその後も次々と客がやってきたので、店主はペラ坊のことなどすっかり忘れてしまっていた。そろそろ夜が明けようとしていた。明るくなる前に客たちは急いで宿主のところへ戻らなくてはならない。

「おや」店主はもうすっかり戻ってきているはずのペラ坊がまだ帰ってきていないことに気が付いた。「おかしいぞ。こんなに時間がかかるはずはないのだが」心配になった店主は、片手にペンライトを持ち、ペラ坊を探しに一ページ一ページ丁寧に読み進めていった。しばらくすると、あるシーンまでやってきた。それはひとりの画家がのちに、幻の名画と呼ばれるようになる作品の製作途中で、作品をどうしても仕上げることができず、苦悩するという場面だった。

「おう。描けん。どうしても描けんのだ。最後に男の影だけが」そう言って画家はアトリエから出て行き、自分の部屋に閉じこもった。

「ひゃっひゃっひゃっ。これは面白いことになってきた。ちょいといたずらしてやろう」店主はペラ坊の声を聞き、急いで声のした場面にペンライトを走らせた。ちょうどその時、ペラ坊は絵の中にするりと入っていくのが見えた。「ああっ」店主が声をあげた時にはもう手遅れだった。店主は、この絵の行く末を知っていたからである。完成したこの名画はやがて数奇な運命をたどったあと、ある美術館が引き取ることになったのだが、その美術館に恨みを持つ人物により放火されてしまったのである。

しばらく呆然としていた店主だが、そっと本を閉じ、もとにあった店の奥の棚に戻した。

「本当にとびきりのミステリーができちまった」