佳作「冬の朝 江島ゆう子」
水滴まみれの結露した窓ガラスが、今夜は泣き崩れているように見える。あの日も、こんな底冷えする日だったと、夫の壮一が他界した五年前のあの日を思い出す。はたから見たら、元気に独身生活をしているように見えるだろうが、未だに心の奥には、静かで冷たい鉛のような空気が留まっている。仕事の忙しさが、実は救いだ。食べかけのみかんをテーブルに置き、歯を磨き、明かりを消して、床に入った。体が重く、疲れが布団に染みこんでいくようだ。今夜はよく眠れそうだ。
夢を見た。西日が部屋に差し込むオレンジ色の明るい部屋。温かく乾燥している冬の休日。夫と私が、みかんを剥いている。夫が一房頬張りながら、半分に割ったみかんを私に差し出し、私も同じように半分差し出し、半分ずつ交換して食べている。
あれ? 壮ちゃん、亡くなったはずじゃ……? そう思った瞬間、目が覚めた。ああ、目覚めてしまった……もっと話しがしたかったのに……。そんな夢の名残の中でぼんやりしているところに、プルルルルッ! 電話のベルが鳴った。ドキッとした。時計に目をやると、まだ朝の五時。こんな早朝に電話? 親戚からの訃報が頭をよぎり、心拍が速まる。
「はい、佐川です……。」
「あ、もしもし? えーと、友里恵?」
「あ、はい。」
誰?
「えーと、俺。壮一。」
電話を使った詐欺犯罪だと、瞬時に悟った。
「壮一は、とっくに亡くなっております。」
すぐ電話を切ろうと思った。こんな朝っぱらに、しかも、壮一の夢を見た直後に、このいたずら電話。気分は最悪だ。だが、相手は、想定外の言葉を切り出した。
「うん、もう俺が亡くなって結構経つな……。友里恵さ、今、俺の夢を見ただろ?」
は? 一体何を言っているのか? 頭が混乱する。そんな私を置いてけぼりにして、電話の主は話し続けた。
「俺らが同時にお互いの夢を見たとき、こうして俺はお前に電話できるんだ。」
「え?」
「信じられないだろうが、俺は俺だ。あの世の壮一だ。あの世とこの世は、ほんの少しつながっている部分があるんだ。」
本当に壮一が電話しているように思えてしまう……そうだ、最近のいたずら電話は巧妙なんだった。新手の詐欺師だ。冷静さが戻る。
「元気か?」
でも……、声が、壮ちゃんだ。
「仕事、忙しそうだな。あ、車の免許、取ったんだな。運転はムリ! なんて言ってたのにさ、すっごいじゃん!」
すっごいじゃん! は、壮ちゃんの口癖。
「助手席で煎餅食うのもいいが、運転もなかなか面白いだろ?」
車の運転が大好きだった壮ちゃん。
「信じられないのも仕方ないけど、もう切らなきゃならない。夢から覚めた直後だけなんだ、電話できるのは。」
「壮ちゃん……。」
「うん?」
あなた、壮ちゃんなの……?
「今朝ね、壮ちゃんと、みかんを半分ずつ交換して、甘さ比べする夢見たのよ。」
「ああ、それ、よくやったなぁ! 友里恵のみかんが甘そうに見えてなあ。あ、俺は友里恵がボリボリ煎餅食ってる夢だったぞ!」
「ふふ……。」
笑いがこぼれた瞬間、涙がつーっと流れてきた。やっぱり、壮ちゃんだ……。どんどん涙が溢れ、もうぼやけて辺りが見えない。鼻をすする音が、電話で伝わっていた。
「なあ、友里恵。笑え! もっともっと笑え! 俺の分まで、腹の底から笑え! いいか、死ぬまで思いっきり笑うんだ! 笑わないと、承知しないからな! わかったな! 元気でな!」
プーップーップーッ…… 受話器を置くことが出来ないまま、私は久々に大泣きした。
それから、夫の夢を見ようとしたが、なかなか見られなかった。二ヶ月後、また夢に出てきてくれたが、電話はなかった。時間が経つに連れ、あれは夢だったのだと思えてくる。いつか私が向こうに行ったとき、壮ちゃんと離れてから起こった出来事をいっぱい聞いてもらおう、そう思うと、いっぱい楽しい事をして、笑える話をたくさん用意して、あの世に行かなきゃ! って思えてくる。私の笑顔は自然と増えていった。夫と一緒に私が生きた時間。夫なしで私が生きた時間。どちらもあって、私の完成された人生になるのだ。
中古の白い軽自動車に乗って、今日も私は職場へ向かう。壮ちゃん、どう? 私のハンドルさばき。助手席でお煎餅かじっているより、今の私、ずっと格好イイでしょ? そう思いながら、アクセルを深めに踏み込んだ。