選外佳作「ゴッドハンド 秋あきら」
ポケットの中には、もう小銭しか残ってなかった。そろそろ仕事をしないといけない。哲太がそう思っていた矢先『ゴッドハンド』から指示が出た。哲太はゴッドハンドに言われるまま、隣町に先月できた新しいショッピングモールにやって来た。
「おお、すげぇ人だな」
ちょうど夏物バーゲンをやっていたおかげで、アパレルショップが特に賑わっていた。これならより取り見取りだ。哲太は、ワゴンを物色している女に近づいた。ワゴンの中は男性用の夏物下着で、均一シールがこれでもかと貼ってある。哲太は、サイズ確認に夢中の女の後ろを、ゆったりとした動作で通り過ぎた。
「はい、いっちょあがり」
哲太の手には、お札が数枚握られていた。女の手提げ鞄から財布を抜き、更に札入れからお札をいくらか頂戴し、その財布をまた元に戻す。
わずかの間に、これだけのことをやってのける。これが哲太のやり口だった。財布を元に戻すのは、発覚を遅らせるのに効果的だとゴッドハンドから教わった。
哲太はプロのスリ師だった。もう十年近く続けている。これだけ長く続けられているのは、全てゴッドハンドの指示のおかげだ。
哲太がこの道に足を踏み入れたのは、十八の時だった。勉強が苦手で、体力に自信もない哲太は、高校を出ても仕事もせずのらりくらりと過ごしていた。親に言われてアルバイトを始めても、やる気も根気もないので長続きしない。手っ取り早く金が手に入る方法はないだろうかと考えているうち、誰かから盗めばいいという考えに落ち着くのに、さして時間はかからなかった。
それでも最初のうちは、果たして自分にできるのだろうかという不安が大きかった。しかし、無造作に財布を尻ポケットに突っ込んでいる男を見るにつけ、その気持ちは薄らいでいった。ポケットからは、財布の半分が、にょきっと露出しており、盗ってくれといわんばかりだ。女にしたって、大きく口の開いた鞄の中から財布が丸見えだ。哲太はそういった輩にさりげなく近づいて、素早く財布を引っ張り出した。終わってみると、それは、思っていたよりずっと簡単なことだった。
もともと素質があったのか、それからの哲太はみるみる腕をあげた。最初は五本の指で掴んでいた財布も、すぐに二本の指でひょいとつまめるようになった。哲太の手さばきは実に華麗だった。まるで手品師のように、しなやかに手首が返ったかと思うと、その手はもう目当ての品を掴んでいた。もはや不安は、快楽に変わっていた。財布を見ると興奮し、指が疼いた。
そんなある日の事だった。その日も哲太は混み合った電車の中で、無防備に財布を晒している男に近づいた。ところが指を伸ばした途端、不審な声が聞こえた。
『お前、いい加減にしておくんだな』
男に気づかれたのかと思い、哲太はぎょっとした。しかし男は新聞を読むのに夢中だ。
『自分を過信するのも大概にしろよ』
哲太は声の主を探して辺りを覗った。しかし周りの奴らには、その声も聞こえないのか、哲太に注意を向ける人など一人もいない。
『ここだ、ここ。お前の右手だ。心配しなくても、この声はお前にしか聞こえねぇよ』
哲太は驚いて自分の右手を見た。掌も、手の甲も、別段変わったところはない。しかし、その声は間違いなく、右手から聞こえた。
『お前、調子こいてンじゃねぇぞ。それは全部このオレ様のおかげなんだからな』
「ちょ、ちょっと待ってくれ。これは一体…」
右手は、哲太の動揺などおかまいなしに言い募った。
『いいか、図にのった人間はみっともないし、分をわきまえない奴にはしっぺ返しがくるものと相場は決まっている』
確かに、哲太が今まで読んだ漫画では、結末は全てそうだった。
「じ、じゃあ、どうしたらいいんだ?」
『節制することだな。手持ちのお金がなくなるまで、余計な仕事はしない。泥棒の美学だ』
哲太は渋々ながらも右手の言うことを聞いた。というより、元が小心者の哲太は、命令されると嫌とは言えないのだ。それ以来、哲太は自分の右手のことをゴッドハンドと呼び、右手の言う通り行動してきた。そのおかげで、十年経った今では、哲太自身が仲間内で『ゴッドハンド』と呼ばれ、一目置かれる存在になっている。警察の捜査が及ぶこともなく、平和に暮らすことができている。
とはいえ、この頃はちょっと困ったことが起こるようになった。
『こらお前、また私のことを無視したな』
実は最近、左手の声も聞こえるようになったのだ。今も、言うことを聞かなかった哲太を責め、右手と口喧嘩が始まったところだ。