佳作「大切なもの いとうりん」
藤田は子供のころから、ポケットに手を入れる癖があった。しかもその中で指を動かすものだから、すぐに穴があいてしまう。だから藤田は、大切なものをいくつも落とした。母親からお使いを頼まれたときの小銭、友達にもらった光るビー玉、自転車の鍵、キャンディ、チケットなど、数えきれない。
藤田は三十歳になった。ポケットに手を入れる癖は相変わらずで、ポケットに穴をあけるのも日常茶飯事だが、学習能力がある彼は、大切なものは入れないように心がけている。藤田の人生は順風満帆だ。大手の建設会社で働き、この春素敵な女性と結婚した。
藤田は今日、ひどく緊張している。新しいショッピングモールの候補地を決める会議で、プレゼンをすることになっている。必要な資料を抱えて会議室に向かう藤田を、先輩社員が呼び止めた。
「おい藤田、結婚指輪は外した方がいいぞ」
「えっ? なぜです?」
「開発部長の桐島さん、最近離婚してさ、結婚指輪をしている男に手厳しいって噂だ」
桐島部長は、この会社では珍しい女性の幹部だ。陰で鉄の女と呼ばれるほど冷酷で厳しいと評判だ。しかも開発部長の意見は重要だ。藤田は理不尽だと思ったが、左手の薬指から指輪を外し、ポケットに入れた。
重箱の隅をつつくような質問に、しどろもどろになりながらも、藤田は何とかプレゼンを終えた。最後に桐島部長から「目の付け所はいいわ」と褒められ、ホッとしながら自分のデスクに戻り、指輪を嵌めようとポケットを探った。
「ない……」
ポケットには、ちょうど指輪がすり抜けるためにあいたような穴があった。
「指輪を失くしただって? 新婚なのにまずいぞ。奥さんに浮気を疑われるぞ」
そう言ったのは、さっき指輪を外すように言った先輩だ。藤田は焦った。あの指輪は、ジュエリーデザイナーをしている妻の叔母が、特別に作ってくれたものだった。しかも追い打ちをかけるような妻からの電話だ。
「仕事中にごめんね。急なんだけど、今夜叔母が遊びに来ることになったの。ほら、指輪を作ってくれた叔母よ。だから今日、早く帰って来て欲しいんだけど大丈夫?」
「うん、わかった」と答えながら、藤田は頭が真っ白だった。指輪を探さなければ。
彼は昼休みに食事も摂らず、指輪を探した。自分のフロアから会議室に続く廊下をくまなく見て回り、会議室も隅から隅まで見た。見つからない。一体どこで落としたのだろう。正直に話した方がいいだろうか。妻は優しく聡明な女性だ。先輩が言うような、浮気を疑うような女性では断じてない……と思う。藤田は自分を励ますように頷いて、自分のデスクに戻った。
「藤田さん、桐島部長がお呼びですよ」
女子社員に言われて、藤田は力なく立ち上がった。平社員の藤田を直接呼ぶなんて、資料に不手際でもあったのだろうか。泣きっ面に蜂とはこのことか。重い気持ちを抱えて、開発部に向かった。
「失礼します。藤田です」
桐島部長は、見ていた資料から顔を上げ、黒ぶちの眼鏡を外した。
「藤田君」
「はい、すみません」
「何を謝ってるの。まだ何も言ってないわ」
桐島部長は、机の引き出しから白いレースのハンカチを出し、藤田に差し出した。
「藤田君、あなた、こんな大切なものを落としちゃダメでしょう」
白いハンカチの中央に、プラチナの結婚指輪が輝いていた。間違いなく藤田のものだ。桐島部長が指輪を拾い、その裏側に彫られた名前で、藤田の物だと気づいたのだ。
「ありがとうございます」
藤田は思わず泣きそうになりながら、指輪を嵌めた。
「大切にしなさいよ。指輪も、家族も」
鉄の女と呼ばれるその人は、真綿のような柔らかい表情をしていた。
「ねえ藤田君、ポケットに手を入れるのは、やめた方がいいと思うわ。何度か見かけたことがあるけど、あまり行儀がよくないわね」
「すみません。子供のころからの癖でして」
「これからは、その手をポケットに入れる代わりに、奥さんの手をしっかり握りなさい。絶対に離しちゃだめよ」
桐島部長はそれだけ言うと、眼鏡をかけていつもの厳しい顔に戻った。藤田は深々と頭を下げて部長室を後にした。安心感からか急に腹が減ってきた。「今日は早く帰ろう」とつぶやき、ポケットに手を入れそうになったとき、妻の顔が浮かんだ。藤田はその手を戻し、指輪を見つめて歩き出した。