佳作「落し物 真木乃蓮」
床に落ちている薔薇色のパスケースに気づいたのは、おばあさんがバスを降りたあとだった。拾い上げるとそれはシルバーパスで、十中八九、先ほどの前の座席にいたおばあさんのものだ。バスの中で小耳に挟んだおばあさんと連れの孫娘らしい若い女性の会話では、近くの「ルーアン」という喫茶店が二人の店兼自宅だということだった。
僕は一瞬迷ってから降車ブザーを押し、老女が降りたバス停の一つ先で降りた。
馴染みのない街でバスを降りたのは、落とし物の定期券を届けようという親切心だけではない。僕は家に帰りたくなかった。家に帰って、今日の合格発表を以って受験した全ての医学部が不合格だったと家族に伝えたくなかったのだ。両親も兄も医師である一家でそれをいうことは、自分だけ家族に相応しくない人間だと証明するような気がした。時間をおいても結果は変わらないのだが、僕は少しでも家に帰るのを遅らせたかった。モヤモヤした思いを振り切るように、僕はバスで来た道を早足で戻った。
歩きながら頭に浮かぶのは不合格のことばかりだった。浪人は決定だろう。でもその先はどうなる? 一年間受験勉強を積み上げて合格できるだろうか。よしんば合格したとして医者になれるだろうか。まるで自信がない。父も母も兄も優秀なのに自分は違うと気づいたのはいつだっただろう。家に帰りたくない。帰ってこんな結果を伝えて家族から落胆と苛立ちと哀れみの目を向けられるくらいなら帰りたくなかった。
喫茶店のルーアンはすぐに見つかった。ドアを開けると「いらっしゃいませ」という声がした。いかにも迎え入れられている感じのする温かな声に、気持ちがふっと緩んだ。声の主はおばあさんと一緒にいた若い女性で、こげ茶色のエプロンをしている。
「あの、」
僕は急に言葉に詰まってしまい、無言で薔薇色のパスケースを差し出した。女性は目を見開いた。
「まあ、これ。おばあちゃま、おばあちゃま」
呼ばれた老女が奥から姿を現した。戻った失せ物を見て笑顔が開いた。美しい薔薇色のパスケースはきっと彼女の大切なものなのだろう。届けて良かったと胸が暖かくなった。
お礼にと、二人は紅茶とアップルパイを振舞ってくれた。本当は自分が家に帰りたくないから落し物を届けに来ただけなんです。そんな本心が頭をもたげると心苦しかった。だがお茶もアップルパイも美味しかったし、店は居心地がよく、何より二人は聞き上手だった。気がつくと僕は医学部に落ちたことも家に帰りたくないこともすっかり話していた。
「そう。自分の夢に向かって進むのは大変なことよね」
若い女性は俯いている僕に柔らかく微笑んだ。
僕ははっとして顔を上げた。
僕の夢って医学部に合格することだった? 違う。僕の夢ってなんだ? 僕はなんで医者になろうとしたんだっけ?
そうして思い出した。幼稚園のころ、骨折して四週間も入院したとき、付き添い、励ましてくれた看護師と理学療法士を僕は大好きだったこと。彼らは幼い子供が病室で一人夜を過ごす寂しさを慰め、リハビリ訓練の辛さに寄り添い、できたときにはともに喜んでくれた。だから自分も大きくなったら、そうやって病気や怪我の人の役に立ちたいと思ったのだ。
それなのにいつの間にか父母や兄が医師だから医療イコール医師だと思い込んでいた。病気や怪我を治す医師も大事な仕事だけど、患者をサポートすることこそが自分の夢だったはずなのに。
胸の奥で何かが動いた。僕は椅子から立ち上がった。
「ごちそうさまでした。そろそろ帰ります」
おばあさんと若い女性は穏やかに微笑んで頷いた。
「本当に、わざわざ届けてくれてありがとう」
「いいえ」
僕は首を振った。僕こそ、ここで落し物を見つけました。
一礼して店を出ると、僕はバス停に向かって駆け出した。