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【結果発表】第9回生命を見つめるフォト&エッセー(エッセー部門)

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結果発表

第9回生命を見つめるフォト&エッセー(エッセー部門)

医師や看護師との交流や介護、生命の誕生などをつづったエッセーを募集。

〔主催〕日本医師会 読売新聞社
〔応募数〕1,132編

一般の部 厚生労働大臣賞
「生きたいと強く願い」

(植山教子 千葉県)

 人生の伴侶を失った私に親戚の一人が何度も同じ質問をする。「なぜ、あいつは死ななければならなかったのか?」と。夫の病名は伝えていた。膵臓ぞがんだった。また、友人からは「健康診断は受けていなかったの?」と尋ねられた。生真面目な夫は会社の健康診断を欠かしたことなど一度もない。転移の無い膵臓頭部の局所がんだったが、がん細胞は門脈にも浸潤していた。そのため手術は難しく、手術以外の根治治療に望みを託したが、病気に勝つことはできなかったのだ。
 まだ、66歳の若さだった。死去を嘆くあまりの質問に悪意はないと理解している。だが、まるで自己責任を追及するような言葉に心が痛んだ。夫は何一つ悪くない。
 この病気が分かった日から「生きたい」と強く願い、1年半を懸命に病気と闘った。そして多くの人々がそれを支えてくれた。その日々を回顧し、ここに綴りたいと思う。
 世の中はコロナ禍だった。検診で再検査の通知が届いた夫は、地域の拠点病院で精密検査を受け膵臓頭部にがんがあると医師に告げられた。この病気の5年後の生存率は、わずか6パーセント。「今後は延命治療だけ? もう治せないのですか?」と顔は青ざめた。それでも腐ることなく気持ちを切り替え、この病気について深く学び、自ら主治医に様々な提案を始めた。最初は「量子科学技術研究開発機構へのセカンドオピニオンを」と懇願した。主治医は、「初めてのことですが、調べて必ずやります。私の父だと思うと絶対にやりたいので」と言ってくれた。
 幸い治療費の心配は一切なかった。高額ながん治療を安心して受けられる医療保険に複数加入していたからだ。「仕事を続けながら治療をしたい」と本人が希望し、職場の皆様は全面協力。それで心身ともに助けられた。病室にパソコンを持ち込み、リモートワークができたことで気分転換になり、励みにもなったように見えた。
 初回の抗がん剤治療から退院した夏は、気力体力共に旺盛だった。近いうちに遭遇する脱毛に備え、医療用ウィッグを早速注文したほどだ。誕生日祝いに娘と息子が自宅を訪れた時、夫は完成したウィッグを被り、わざわざスーツに着替えてお茶目に笑っていた。希望に満ちた笑顔だった。私達家族は、この日の笑顔を忘れることはない。
 重粒子線治療は患部から十二指腸が近いとの理由で断られた。治療ができる可能性もあったため半年の間通院したが、夢は叶わず。このがんの場合、重粒子線照射後の2年制御率は83パーセント。併せて外科手術も可能になれば完治の可能性もあった。「十二指腸を避けて照射できないのですか?」と問い詰め、悲観した。ここは国の研究機関、成功率を重視して患者を選ぶのだと思い知らされた。その時、季節は冬になっていた。
 それでも諦めることはなく、がん専門病院をいくつか尋ね歩いた。そんな中、数人の放射線治療医が紹介され、「陽子線」を使用する根治治療を選択することになった。週5日も遠方まで通院し、照射は28回と回数も多く大変ではあったが、この治療で治るかも知れないと大きな期待を持って臨んだ。
 陽子線治療の効果は顕著で腫瘍マーカーは健康な人の数値になり、膵臓の腫瘍も画像では燃えカスのように見えた。しかし、喜んだのも束の間、容態は再び変化した。胆管炎から敗血症になり、一時は危篤にもなった。幸い危篤状態からは脱したが、腹水が溜まり始め徐々に体力は失われた。スポーツマンで体力自慢だった人が、階段の昇降にも苦労するようになり、ついに退職届を出した。夏の終わりの頃、がん告知から1年が過ぎていた。
 その後は、入退院を繰り返したが、病棟では明るく冗談をいい、看護師さんを相手に息子の嫁探しを楽しんでいた。注射などの処置の前には氏名の確認があるが、「名前を聞かれたら福山雅治ですと言ってやる」と、得意のネタも忘れない。しかし、体調は回復せずついに抗がん剤も使えなくなり絶望した。まさにそのとき、30代後半の長女から「私、結婚します」と驚きの報告がきたのだ。夫は挙式披露宴を心待ちに体力回復に努めた。だが、年が明けた頃、本人も命の終わりが近いと覚悟した。春の結婚式までは生きられないと。
 娘達が「お父さんに花嫁姿を見せてあげたい」と奮闘してくれた。新郎新婦姿で式場から病院へ乗り込むとの発案。この前代未聞の計画に、病院は温かく許可をくださった。夜勤明けの看護師さん達が病室を飾り付け、花嫁たちが到着すると一緒に祝ってくれたのだ。主治医も駆け付けてくれた。胸が震えるほど感動し、感謝した。
 夫が亡くなったのは、この日の夜だった。臨終の姿は笑顔のように見えた。最期の時まで家族を思い、家族のために身を尽くした夫に、私は伝えたいことがある。「あなたに会えて、幸せでした」と。
 

中高生の部 文部科学大臣賞
「人は支え合って生きてゆく」

(岩佐葵 神奈川県)

 祖母は私の中で強さとやさしさを併せ持つ存在だった。祖父が亡くなってからは一人暮らしをしていたが、毎朝決まった時間に起きて台所に立ち、決まった朝食を作るなど、非常に健康的な生活を送っていた。時には近所の人とコーラスを楽しみ、時には私の宿題をのぞき込んで数学の問題の解き方を教えてくれる、そんな自慢の祖母だった。私は漠然と祖母は100歳まで元気に生きるに違いない、と信じて疑わなかった。
 しかし、日常は急に崩れ始めた。祖母が認知症を発症したのだ。最初は少し物忘れが増えたかな、と思う程度だった。だが、症状は次第に深刻になり、1日に何度も電話がかかってきては、不安を訴えたり、怒りを爆発させたりするようになった。スマートフォンから漏れ聞こえる泣き声や荒い口調を聞くたびに、私は胸をしめつけられた。遠く離れて生活していることもあり、すぐに駆け付けることもできない。数分おきにかかってくる電話にうんうんと相槌を打ち、ただ祖母の訴えを聞くことしかできない両親は、どうすればよいのか答えを見つけることもできないまま、どんどん疲弊していった。やがて祖母の記憶は大きく欠け落ち、父の名前さえ思い出せなくなった。この事実に、私は深い衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えている。孫である私のことを忘れてしまうのは仕方がないが、父の存在さえ消えてしまうとは想像していなかったからだ。両親は懸命に介護を続けたが、祖母は人が変わったように父や母を責め立てた。そのたびになぜこんなことに、と思わずにはいられなかった。
 祖母が認知症と診断されてから、家族の中には疲労と苛いら立だちがたまっていった。食卓の会話は減り、家の中の空気はどんよりと曇っていった。私自身も、祖母に対してどう接してよいのか分からず、戸惑いや無力感に押しつぶされそうになった。心のどこかで介護は家族の務めという思い込みがあり、それを果たせない自分達に罪悪感さえ抱いた。そんな折、祖母の部屋で1冊のノートを見つけた。そこには震える字で「自分の頭がおかしい」「死んでしまいたい」などが綴られていた。私達はページをめくるごとに胸が熱くなり、涙が止まらなくなった。祖母の言動に振り回されて、その裏にある苦しみや孤独を見落としていたのではないだろうか。祖母は病気に侵されながらも、必死に本来の自分であろうともがいていたことに気が付き、これまでの自分を恥ずかしく思った。
 やがて祖母は施設に入居した。医師や看護師、介護士の方々に囲まれながら、祖母は少しずつ穏やかさを取り戻していった。ある日看護師の方が「認知症の方には、否定せず、安心できる言葉をかけることが大切なんですよ」と教えてくださった。その一言に、私達は目から鱗が落ちる思いだった。これまでどう接してよいか分からず、ただ戸惑っていた私達にとって、暗闇に差し込む光のようだった。またある時は、母にそっと「今まで、よく頑張ってこられましたね」と声をかけてくださった。この言葉に、母は堪えきれずに涙を流した。その姿を見て、私ははっとした。専門的な知識と技術に加えて、こうした温かなまなざしがあるからこそ、祖母だけでなく介護に向き合ってきた家族もまた救われたのだと気が付いた。祖母が笑顔を取り戻していった時間は、私達家族の心が癒やされていく時間でもあった。祖母の記憶が戻ることはなかったが、誰かと心を通わせる時間は確かに残っていた。この時の経験が私に人は一人では生きられないという当たり前の事実を深く刻んだ。
 認知症は特別な誰かだけの問題ではない。日本では高齢化が進み、すでに誰の家庭でも起こり得る課題だ。だからこそ、家族の力だけに依存するのではなく、地域や社会全体で支える仕組みが必要だと感じる。支える側の孤立を防ぎ、本人の尊厳を守るためには、多様な人との関わりが欠かせないのではないだろうか。私はこの経験を通して、寄り添うという言葉の意味を考えるようになった。
寄り添うとは、必ずしも相手を完全に理解することではない。自分自身を犠牲にして伴走することでもない。たとえ短い時間でも、声をかけ、共に過ごし、相手の存在を認めることが大切なのではないだろうか。そうした小さな積み重ねが、病気や孤独に苦しむ人の心を支えるのだと知った。
 祖母の人生の最期の数年間は、決して平坦なものではなかった。苦しい時間も多かっただろう。その祖母が示してくれた「人は支え合って生きる」という教えは、私の中で消えることはない。これからは、この学びを胸に人との関わりを大切に紡いでいきたい。そして、祖母が私に残してくれたものを、次は私が誰かに手渡していきたい。

出典:https://jigyou.yomiuri.co.jp/photo-essay/works2026.html