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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 あれのいる風景/本川史八

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小説でもどうぞ

第2回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

あれのいる風景
本川史八

「もしもし」と言うと、「何してる?」と声がした。女の子のような、男の子の声だった。「ルイ君か。早いなあ、寝てたよ」と私は言った。ルイ君の母親と私は、交際していたことがあった。フラれてしまったのであるが、ルイ君との関係は、その後も続いていたのである。「もうお昼だよ。お昼食べた?」。「まだ食べてないよ。もう昼かあ」。「ケイちゃんに話したいことがある」。「ママに彼氏でも出来たか」。「違うよ。彼氏なんていつだっているんだから。もっと凄いことだよ」とルイ君は笑って言った。

 ベンチに、ルイ君がいるのが見える。初めて三人で会ったのも、この公園だった。「話したいことって?」。「機械の猫、見る?」とルイ君は、にこにこして言った。「機械の猫? 学校の工作だな」。「違うよ。タケさんが作ったやつ。ロボットの猫だよ」。

 よく知っている駐車場に着いた。よくここで見かける、野良猫のミンちゃんが寝転がっている。私はクロと呼んでいたのだが、よくクロと一緒に見かけるおばさんとここで立ち話をした際、クロは、ここらでは、みんなの猫ちゃん、ミンちゃんと呼ばれていると知った。おばさんによると、ミンちゃんは、二、三年程前から見かけるようになったとのことだった。「ミンちゃんだよ。よくここにいる野良猫で、大体その車の下か、こうして、ブロック塀の根っこにくっついて寝てる」と私は言った。私は顔の後ろや首を掻かせてもらい、ルイ君はお尻を撫でている。ミンちゃんは薄目を開けて、ただ静かに寝そべっていた。「アレちゃんだよ。僕とママは、マルって呼んでたけど。アレはね、タケさんが作った猫なんだよ。機械なの、猫だけど」。ルイ君いわく、タケさんは現在八十五歳ぐらいで、調子も悪く、もうじき死ぬと言っているとのことだった。

 タケさんは、布団に横になっていた。「調子があまり良くないと聞きました...」。「ええ、僕はもうじき死にます。こうしてお喋りしながら、そのまま死んでしまうかもしれない」と言ってタケさんは笑った。私も笑ったのだけれど、「それで」とタケさんは話を続けた。「次に、あれのことで子供が来たら、全部教えようと決めてました。そして、ルイ君が来た」。「ミンちゃんですよね、野良猫の」。「あれは、そちらでは、ミンちゃんと呼んでもらってますか。色々な名前を貰って幸せなやつです。あれは、僕が作りましてね」とタケさんは言った。私はタケさんの法螺話に満足し、感心していると、「タケさんが、誰か変わり者一人だけになら、アレのこと教えてもいいって言ったから」とルイ君は言った。

「あの日、ルイ君が訪ねてきて。マルはお爺さんの猫ですかって」。「うん。マル逃げちゃって。追いかけたら消えちゃった。そしたら小さな銀色のボールが転がってて」とルイ君が言うと、タケさんは突然大きな声で笑った。「ルイ君が銀球をポケットに入れて持って帰ろうなんてしたもんだから、あれは慌ててね。大慌てでポケットから飛び出して走った。ルイ君も走った」。

 私は黙って正座をして聞いていた。ルイ君は大の字になって天井を見つめている。しばらくタケさんも黙っていた。「ある時、母が野良猫を連れてきて。あれほど猫は飼わないと言ったのにと、父は激怒しました。母がタマと名付けたのに、父は、あれと呼んだ。でも結局、僕も、あれをあれと呼ぶのだから、まったく変な親子です。あれは、ある時、遊びに出て行って、そのまま二度と戻ってこなかった。また野良猫になったのかな。野良猫は、いつか、みんないなくなるのかもしれない。それは正しくて良いことなのだろうと思う。でも僕は、なんだか、風景から、野良猫がいなくなるのが寂しくてね。それで、あれを作ってしまいました。今日からちょうど、三年前のことです。父さん、約束どおり、三年経ちましたね」。私は目をつぶって聞き入っていたのだけれど、目を開けると、タケさんは消えていた。ルイ君は、どうやら寝ているようだった。布団には、ただぽつんと、銀色の小さな四角が転がっている。そっと指で押してみると、綺麗に割れて真っ二つになっていた。「タケさんどうしちゃったの」とルイ君の声が聞こえた。私は何が何やらよく分からず、「猫は丸で、人は四角か」と呟いて、それから、「タケさんは、死んでしまったようだ」と言った。

 今だって、何が何やら分からない。とにかく銀キューブの、タケさんの、割れた半分はルイ君とあの人の住む家に、もう半分は、私の家の、一番見晴らしの良い窓際に置いてある。そのうち、ミンちゃんが会いに来るかもしれないのだから。やはりミンちゃんは、クロは、マルは、あれは、猫であり、猫ではないということなのだろうか。あれは、これから先、どれだけ先、どんな名前を、いくつの名前を、貰うのだろうか。

(了)