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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 帰還/平野流

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ

第2回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

帰還
平野流

 透君が家に来るので裏庭のささやかな畑からトマトやナスやズッキーニを収穫してきてラタトゥイユを仕込んだ。

 約束の五時から十五分遅れて猫を抱いた透君が玄関先に立っていた。

「どうも」

 意表を突かれた私は猫を見つめた。透君は部屋の奥に視線をやりつつ、

「上がっても?」

 と聞いてきた。私は頷いて入口を譲った。町家風の家は玄関を上がると居間と小さな台所に繋がっている。突き当りは縁側で裏庭の畑が見える。透君はちゃぶ台の前に座り、茶トラの猫が彼の胡座の中にすっぽり収まっていた。

 透君とは二ヶ月ほど前にライブハウスの近くの道端で出会った。ライブの帰り道、私は塀の上の野良猫を見上げて、「気持ちいい夜だね」と話しかけていた。

 背後から不意に声がした。

「猫好きなん? 猫と話せるん?」

 振り向くとライブに出ていた男の子がギターケースを肩にかけて立っていた。ひょろりとした長身、髪はシルバーで天然パーマ風、くりくりした目に笑った口元が少し幼い。

「話しかけたら結構聞いてくれるよ」

「へぇ、そうなんや。あ、逃げた」

 野良猫が塀の上を走り去るのが見えた。

 透君の膝の猫は私を凝視している。

「どうしたのこの猫? 透君の猫?」

「一週間前から俺の猫。『なまえ』オスやで」

「え?」

 猫はオスで名前は『なまえ』透君の先輩バンドマンの家にふらっと現れて住み付いた。

『なまえ』って名は全ての名前を含んでいるがアイデンティティとしての名ではないから全ての呪縛から自由なんだよ、とその先輩は言ったそうだ。なまえは伸びをして透君の膝から降りた。なまえと二年暮らした先輩は実家に帰ることになり透君があとを託されたと言う。透君はリュックからキャットフードや器などを出しながら話を続けた。

「それでな、俺明日からツアーやん? アキにコイツ預かってもらおと思って」

「いやいやいや、猫好きだけど飼ったことないし逃げたりしたらどうするの」

 必死に断る私に透君は笑いかけた。

「家出しても二、三日で帰ってくるって先輩言うてたし、アキなら大丈夫や」

 翌朝早くなまえは尻尾をピンと立てて透君を玄関から見送り、涼しい朝の縁側でまた寝てしまった。なまえは推定十五歳。人間なら八十歳のおじいちゃんらしい。

 ツアーの間、透君から毎日メッセージが届いた。私はなまえの写真をつけて返信した。

 ツアー最終日のメッセージが来た。

〈ツアー終了。このあとしばらく旅してから帰るわ。なまえ、よろしく〉

「気楽なもんだねー」

 なまえに話しかけたが、彼は暑さを凌いで台所の板の間で仰向けになって寝ていた。

 透君からメッセージが来ない日が続き、なまえがいなくなった。透君にメッセージを送っても既読にならない。彼岸花の咲き始めた道を毎日歩いてはなまえを探した。日が短くなり、家に帰ったら何事もなかったように縁側でなまえが寝ているんじゃないか、透君が居間に座っているんじゃないかと急ぎ足で帰っても家はしんとしていた。

 毎日縁側に座り、夕陽の名残のオレンジと夜のブルーが入れ替わっていく空を眺める。人も猫もみんな帰るところがあるのに私はどこに帰ればいいのだろうと思う。どこにも帰れないからここに居ようといつも思う。空のオレンジが消えて星が瞬き始める。全てはうつろうのだ。だから私は私で居ようと妙な決心をしていた。

 玄関で物音がして部屋の灯りが点いた。

「居てるんやん」

 透君の声だった。リュックを下ろした透君がちゃぶ台の前に座り込んだ。リュックからのそのそとなまえが出てきた。駆け寄って暖かく柔らかい感触を抱きしめる。透君はキョトンとしている。

「透君もなまえも行方不明だったんだよ」

 私の訴えに彼はもじゃもじゃの頭を掻き、

「ごめん。携帯水没して金なくて修理できんくて。絵葉書書いたんやけど、住所も携帯の中やったわ」

 と言いながらリュックから絵葉書の束を出してちゃぶ台に置いた。

「もう東北は寒くて服持ってなかったから帰ってきた。近くでなまえに会ったから、お前も一緒に帰ろ、言うて連れて帰ってきてん。腹減ったわぁ」

 私はなまえの器にキャットフードを入れてやり、

「何か作るね」

 と台所に立った。

(了)