高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 赤ちゃんの名前/森千鶴
森千鶴
「重大発表があるんだ」
パパは、ちょっとあらたまった感じで切り出した。わたしは、妹の桃と顔を見合わせた。
ニコニコしているママの膝で、弟の涼太はお昼寝モード、うとうと眠りかけている。
「実はね、新しい家族ができたんだ」
わたしは驚いた。
「どういうこと?」
桃がママに聞く。
「ママのお腹に赤ちゃんがいるの」
ママがとろけるように微笑んでいる。
「やったあ。赤ちゃんだ!」
桃はいつも反応が早くて単純だ。
桃の声で涼太は目が覚めたようだ。目をこすりながら、あくびをしている。
「涼太もお兄ちゃんだぞ」
パパはママの膝から涼太を抱き上げた。
「梨穂、桃、頼りにしてるわ。よろしくね」
ママは、わたしたちに笑いかけた。
「ママのお腹で赤ちゃんが安心して大きくなれるように、ふたりも協力するんだぞ」
いつも少し頼りないパパが、今日はなんだか頼もしい。
その日から、わたしと桃は「赤ちゃん大作戦」を始めることにした。
1 ママのお手伝いをする。
2 自分のことは、なるべく自分でする。
3 赤ちゃんの名前を考える。
「赤ちゃんの名前を考える」作戦は、まだパとママには内緒だ。ふたりでとびっきりいい名前を考えて、その日が来たら提案する。
わたしと桃は、学校から家に帰っておやつを食べると、すぐに宿題にとりかかった。この頃ずっとそうしている。涼太はお昼寝。
「涼太はたっぷりお昼寝をしてくれるから、とっても助かるわ」
宿題が終わったら、ママの手伝いをしようと思っている。それは桃も同じ。どちらが早く終わって手伝えるか競い合っている。でも、わたしのほうが宿題は多いし、難しいし、断然不利なのだ。
「ねえ、赤ちゃんは女の子だったらいいね」
桃は宿題を終えて、ノートを片づけている。
「赤ちゃんだったら、名前は果物だよ。わたしが『梨』で桃は『桃』だから」
「あっ、そうか、みかんとかりんごとか……」
「うーん、でも、ちょっとそれはない感じだよね」
わたしと桃は、すくすと笑い合った。
「ねえ、ママ、お手伝いするよ」
桃がキッチンに行こうとしたときだ。
ママが手で口を押さえている。そして、そのままうずくまった。
「ママ、どうしたの。気持ちが悪いの」
わたしはママの顔をのぞき込んだ。
「だいじょうぶ。つわりっていうの」
ママは口を押さえたまま、リビングのソファにすわった。
「梨穂のときも桃のときも、こんなふうになることはあったの。何も心配しなくていいの」
ママは笑顔になって、わたしと桃の頭をかわりばんこになでてくれた。
五月の空は水色。その空をひこうき雲がまっすぐに横切っている。
わたしたちは、大きな公園の芝生でお弁当を広げた。おにぎりは、わたしと桃が作った。
大きさと形は不揃いだけど、とってもおいしい。唐揚げはパパが揚げて、ポテトサラダは
ママが作った。涼太は広い芝生がうれしくて、ずっと走り回っている。
「パパは、ちょっとトイレに行ってくるから、涼太を見ててね」
パパに頼まれて、わたしと桃はうなずいた。けれど、わたしたちは、デザートの杏仁豆腐に夢中になっていた。涼太が急ダッシュで走り出しママが追いかけた。
「ママ、危ない」
ママが転ぶのが見えた。スローモーションみたいに、わたしの目に飛び込んできた。
次の日の夜、ママが流産したことを、わたしたちは知った。ママは部屋に閉じこもって、ずっと泣いている。
「大切ないのちを守ってあげられなかったのが、悔しいな」
パパは泣きたいのを我慢していた。パパが泣いたら、わたしも泣いてしまいそうだ。
「あのね、名前はみかんっていうの」
桃がぽつりとつぶやいた。そうだ。名前をつけてあげられなかった。
「いい名前だね」
パパは笑おうとしている。
「いい名前だね」
わたしは桃に笑いかけた。
みかんはもうママのお腹の中にはいないけど、すぐそばで、わたしたちのそばで「いい名前だね。ありがとう」って笑っているような気がした。
(了)