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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 さくら/田村恵美子

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小説でもどうぞ

第2回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

さくら
田村恵美子

 朝、キッチンにいる夫の翔を見て櫻子は呆然とした。昨夜、自分が階段から突き落として殺した夫が料理をしている。あれは夢だったかの。血を流し倒れている翔の姿を確かに見た。だがその後の記憶が櫻子にはない。

 そんな櫻子に気付き、翔が話しかけてきた。

「今日は天気もいいし、僕はハイキングに行こうと思うけど、君はどうする?」

 翔は器に卵を割り入れ菜箸でかき回す。

 頭から血を流して死んでいたはずの夫。櫻子は翔の後頭部を凝視した。

「頭は……、身体は大丈夫なの?」

「元気だよ。一緒に行かないかい?」

 櫻子の方へ顔も向けず、卵焼き器に卵液を流し入れながら翔が答える。ジュッという音と共に甘い匂いが広がる。

「はい、行きます」

 そう返事をしたが、櫻子はこの男が夫ではないと確信していた。夫は料理などしない。ハイキングも嫌いだ。夫に似たこの男は誰?

「お弁当は僕が用意するから、君は自分の支度をしてくるといいよ。山の中腹にある一 本桜を見に行こう。もうすぐ満開だよ」

 子どものように屈託のない笑顔で男が笑う。

 自宅から歩いて二時間ほどの場所にある桜を目指し二人は出発した。田んぼ道を抜け、山道へ入った。夫に似た男は、ゆく先々にある植物について櫻子に熱く語る。訝しい男の言葉なのに、櫻子の心は不思議と弾んでいた。

 今まで櫻子は翔と花見をしたことは一度もない。家に生花を飾ることさえ禁止された。翔は潔癖症なのだ。翔の両親が建ててくれた家はとても清潔だが、冷たかった。コンクリートに覆われた庭が櫻子を切なくさせた。

 軽い登山のような山道を一時間ほど歩いてその場所に到着した。少しだけ開かれた場所の真ん中に大きな桜の木が一本。幹は所々削れ、枝もまばらだ。まさに満身創痍。何百年もの間そこに立っているのだろう。それでも満開の桜は美しい。健気に気高く咲いている。

 しばらく桜を見ていた男が口を開いた。

「あなたは殴られることが好きなのですか?」

「ななな何ですか、突然!」

 男の唐突な質問に櫻子は狼狽した。

「地球にはそのような趣味の人がいるということは知っています。それならば僕がとやかく言う筋合いではないので……」

「私にはそういう趣味はありません!」

 櫻子は慌てて叫んだ。

「あなたは、なぜ殴られているのですか?」

 男は櫻子の目をまっすぐに見つめた。

「あなたはいったい何者なの……」

 櫻子は男を睨んだ。

「僕は一か月前からあなたの家の前に密かに調査基地を建て常駐しています。だからあなたの家庭の秘密に気づきました」

 櫻子の家の周りはほとんどが雑木林だ。調査基地って……? 櫻子の思考が止まった。

「僕は地球の植物を調査するため遠い星から来た植物学者です。今はあなたの夫に擬態しています」

 突拍子もない話に櫻子は混乱していた。

「地球人は知的に成熟していると聞いていたが、あなたは奴隷のように扱われている」

 櫻子は唇を噛んだ。外面の良い夫は家の中では残虐な悪魔だった。

「あなたは夫から暴力や暴言を浴びることが当然な存在なのですか? 一体あなたは何?」

「私は……」

 櫻子は言葉に詰まった。日々の暴力に思考は停止していた。男の言葉に、押し込めていた怒りの感情が櫻子の奥底から漏れ出る。自分は夫の所有物ではない、私は私だ!

「私はずっと人間らしく、私らしく生きたかった。夫から逃げたかった。でも、もう遅い」

 櫻子の目から涙が溢れた。

「私、あの人を殺してしまった」

「首を絞められて、それから逃れるために突飛ばしたのは、この国では正当防衛です。それに彼は死んでいません。今、僕らの宇宙船で治療しています」

 翔が生きている。体中に巻かれていた鎖が消えたように、櫻子は解放された。

「一週間もしたら何事もなかったように彼は戻ってきます。それまでにあなたが安全に一人で生活できるように、僕も手伝います」

 男が櫻子の両手を優しく包むように握る。夫の側にいた時よりも、宇宙人の側にいる今の方が櫻子の心は安らいでいた。

「なぜ、そこまでしてくれるの?」

 櫻子が尋ねた。

「さくらが、桜の木が好きなんです。桜は美しく、とても生命力の強い植物です」

 桜を見上げる男に向かって櫻子は聞いた。

「あなたの名前は……」

 二人の上には桜の花が凛然と咲いている。

(了)