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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 ヘアサロンデビュー/宇治金時

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ

第1回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

ヘアサロンデビュー

宇治金時

 最後の顧客を送り出した梶原浩は、こぶしで腰を叩く。美容師になって四十年。腰痛は職業病と諦めている。ヘアサロン『ロッシュ』は去年から完全予約制とし、梶原とアシスタントのリナだけで細々と営業していた。

 午後六時。まだ閉店時間には間があるが、早仕舞いにしようと言いかけた時、リナが神妙な顔で寄って来た。

「店長。あれ、妖怪……ですかね」

 リナの視線の先を辿ると、ガラス扉からぽさぼさの白髪頭に黒縁眼鏡の男が仏頂面で店内を覗き込んでいる。

 梶原に招き入れられた男は、きよろきよろと店内を見回した。荷物を預けるのを拒み、「本日のメニューはお決まりですか」の問いには、「メニュー? ここは居酒屋か? 散髪!」と大声を出してリナを委縮させた。

 黒いバッグを斜め掛けにしたままシャンプー台に横たわった男は、リナが湯加減を尋ねると、「熱いっ!」と怒鳴り、「お痒いところはございませんか?」と訊かれ、「右ひざの裏」と答えた。

 梶原がカットを始めても、男の仏頂面は緩むことがない。梶原は会話の糸口を窺っていた。磨いて来たのは美容の技術だけじゃない。

「グッドタイミングでしたよ。今日は最後の一枠だけ、ちょうど空いていまして」

 カット中、男は口をへの字に結んだまま、鏡越しに梶原を睨みつけていたが、仕上がりに近づいた頃、ケープの下でごそごそと手を動かし、何か取り出した。『ロッシュ』のポイントカードだ。

「これ、うちのヤツのカードなんだが、家族も使えるんだろ? まだ有効期限内だし」

 氏名欄には『谷村浩子』とある。開店当初からの馴染み客だが、そう言えばこの一年ほど予約が入っていない。

「あ、谷村様のご主人でいらっしゃいましたか。あの、奥様は? しばらくご無沙汰ですが、お変わりありませんか」

 谷村は視線を落とし、咳払いをした。

「一年前に誤嚥性肺炎で、あっさり逝きましてね。あと少しで古希の祝いだったのに」

 梶原は鋏をケースに戻す。

「それは……。存じませんで、失礼しました」

「いやね、貧乏学生時代から五十年以上、私の頭はうちのヤツがバカンで刈ってくれてたんですよ。それが、突然いなくなっちゃっんで、困ってね。駅前の激安カットってのも試したけど、イマイチだったな」

 谷村は堰を切ったように饒舌になった。

「一周忌を前に遺品を整理してたら、おたくのポイントカードが出て来て。あと一ポイントで五千円分のプレゼントって書いてあったんで、もったいないと思ってね。それに一生に一度ぐらい美容院てものを体験するのもいいかなと。まぁ、そんなわけで」

「明るく敵な奥様でしたね」

 照れ臭いのか、谷村はぎこちなく頷いた。

「いや、あの、実はちょっと、教えて欲しいことがあるんですが」

 谷村の口調が丁寧になる。

「なんでしょう

「その、うちのヤツは、浩子は何か言ってましたか? 亭主の私のことを」

 梶原の耳に浩子のソフトな声が蘇る。うちの人、とにかく偏屈で、逆切れして大声出したり大変なの。でも悪い人じゃないのよ……。

「ええ、いろいろと」

「悪口ですか?」

「いいえ、優しいご主人だと伺っています」

「いやね……娘に言われたんですよ。お父さんは最低だ、お母さんはずっと我慢慢してたんだよって」

 大きく頷くリナを目で制し、梶原が笑う。

「奥様の愚痴は、半分おのろけですよ。好きじゃなきゃ、半世紀も一緒にいられません」

「この歳で、人生一からリセットです。浩子は、世話女房でした。私はゴミ出しの日も知らなくてね。我慢させていたのか……」

 浩子は前回の来店からそれほど日を置かずにまた予約を入れることがあった。梶原はそんな時、わざと施術に時間をかけ、彼女の話にゆっくりと耳を傾けたものだ。

 帰り際、プレゼントのトリートメント剤を受け取ると、「こんな小さいチューブが五千円もするのか」と毒づき、「美容院なんて、これが最初で最後だ」と呟きながら新しいポイントカードを黒い斜め掛けバッグに仕舞うと、谷村は去って行った。

「ふぅ。気難しいとは聞いてましたけど……」

 ソファにへたり込むリナに梶原は言う。

「美容師の醍醐味ってさ、人生の門出に立ち会えることだよ。七五三、入学式に成人式、七十からの独り立ち。暖かく見守ろうよ」

「了解! でも、ひざの裏は掻けませんっ!」

『ロッシュ』に笑い声が響く。

 一カ月後、谷村からの予約が入った。

(了)