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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 本当の人生へようこそ/福井康修

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ

第1回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

本当の人生へようこそ
福井康修

「お前、洗濯機回したことねえのか……」

 いとこの悟は、咎めるのではなく、少し憐れみを含んだロ調で言った。そう、三十三歳になるまで、翔太は一度も自分で洗濯をしたことがなかった。母親にやってもらっていた。

「別に難しくねえよ。昔みたいに二槽式じゃないんだし、全自動だから」

 悟は操作方法をやさしく教える。最後、スタートのボタンを押す時、これで合っているのだろうかと、翔太は異常なくらい確認した。そして思い切ってボタンを押すと、人生がものすごく前進したように感じた。

 はじめての一人暮らしは、突然始まった。両親がいっぺんに死んだのである。

 母方の伯父の一周忌で、両親は福島へ向かった。引きこもりの翔太は家に残った。父親の運転する車で向かったが、道中、両親は激しいケンカになった。夫婦仲は以前からとても悪かった。この日のケンカの発端は、翔太のことだったらしい。

 興奮した父親はハンドル操作を誤り、二人とも崖下へと転落した。

 十年間引きこもったのも、当然好きで始めたわけではない。この歳になって、親のせいにするのは良くないと翔太も思うが、両親が原因の一つであることは間違いない。

 両親は、一人っ子の翔太を想って、私立の中学に進学させた。嫌がる翔太を塾に通わせ、エスカレーター式に大学に行けるから楽だと説き伏せ、模擬試験の結果が良いと、好きなものを何でも買って与えた。

 しかし壮絶ないじめが待っていた。公立の中学に編入したいと、翔太は何度も両親に言った。その答えは「せっかく有名中学に合格したのにもったいない」だった。

 少しだけ高校の頃、明るくなった。わずかにいた友達とバンドを結成したことが大きい。 ギターの練習に打ち込んだ。それもつかの間、バンドはささいなケンカが元で解散し、行きたかった学部に行けないことも決まった。

 大学は実家から十分通える距離だ。さらに翔太は鬱っぽくなっていた。一人暮らしを見送ったことでまたとない機会を逃した。

 就職活動に失敗したあたりから、引きこもった。不仲な両親の怒鳴り合う声が、頻繁に聞こえてきた。

 両親が死んだということで、天涯孤独の身となった翔太を親戚一同ひどく心配した。確かにこれから何をどうしたらいいのか、全く見当がつかない。しかし期太は、不謹慎だと思いつつも両親がいなくなったことが少しうれしかった。

「干す前に、少し洗濯物を叩くといいぞ。シワが伸びるからな」

 あくまで得はやさしい。一周忌だった母方の伯父の息子が悟だ。こういうことになって、交流が復活した。建設会社に就職し、家庭を持っている。翔太よりも五歳年上だ。

「しかし洗濯物多いなあ。俺が来なかったらどうするつもりだったんだ?」

 確かに大変なことになっていた。汗臭い衣類が無造作に転がっていただろう。

 外は快晴。洗濯物を干すには絶好の日和だ。

 ベランダに出ると、太陽が色黒の悟と色白の翔太を見事に浮かび上がらせた。ここ十年、まともに太陽を浴びてこなかった翔太は、まぶし過ぎて手で目を覆った。

「これから日光浴した方がいいぞ」

 悟はテキパキとピンチハンガーに洗濯物を吊るしていく。翔太は少しずつ手をどかしてみた。すると、十年前は確かにあった向かいの家は更地になっていた。

 干すことを忘れて呆然としながら、翔太は、

「あの……これから私はどうすればいいんでしょうか?」

 と震える声で言った。まだ悟に対してどういう言葉遣いをすればいいのかわからない。昔は一緒に遊んだ仲だ。しかし砕けた言葉が翔太の口からは出なかった。

「どうしたいんだ?」

 悟の太い声が返ってきた。

 翔太の頭は真っ白になった。そして一言も口から出てこなかった。

「これからが本当の人生のはじまりだ」

 悟はもう一つのピンチハンガーを手繰り寄せた。翔太も慌てて、かごから自分のTシャツを持ち上げた。

 どうしたいんだろう。

 自分の素直な気持ちを自分で押さえつけてきたことに翔太は気づいた。

「まあ、恋でもしたらいいんじゃないのか」

 悟は雲一つない空に向かって笑った。

 翔太は笑えなかったが、前を向いて歩いていくことを空に誓った。

(了)