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時代劇の間違い その4

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作家デビュー

百姓から侍になった例2

井沢弥惣兵衛と似たような立場の人物に、大畑才蔵がいる。

大畑才蔵は和歌山の伊都郡学文路(かむろ)村(現在の橋本市南西部)の庄屋で、地方(ぢかた)手代(郡代官麾下(きか)の地方役人)となって詰所に勤務し、新田開発や洪水対策、さらには農業の技術を活かすように井沢弥惣兵衛が要請した。

要するに「侍になれ」と言ったわけであるが、才蔵は、これを断る。

で、地元の学文路村で百姓を続けながら、必要があった時のみ出頭する、その際、手当として三人扶持を支給する、という条件で折り合う。

三人扶持など、豪農の才蔵にしてみれば、せいぜい往復の交通費の実費程度の微々たるものだろう。

井沢弥惣兵衛に次いでは、豪農で川崎宿本陣だった田中丘隅(きゅうぐ)だろう。

享保六年(一七二一)頃に、徳川吉宗はベトナムからアジア象を輸入したのであるが、江戸まで来るのに渡らなければならない多摩川には、橋が架かっていない。

象のような重量物を乗せて運べるような大型船は、多摩川には、ない。

そこで、近郷近在の百姓町人を召集して、船と船を繋いで仮橋を架けさせたのであるが、これに噛み付いたのが、田中丘隅である。

丘隅は百姓とはいえ、苗字帯刀、御目見以上の身分であるから、吉宗に会って直訴する。

「もう、こんな迷惑なことは、二度とやらないでいただきたい」と――。

吉宗は『暴れん坊将軍』のイメージとは違って、本当か嘘か分からないが、生涯に亘って唯の一度も怒らなかったと言われた人である。

吉宗は家康に次いで鷹狩りの好きな人であったが、ある時、道を踏み誤って畑の中の肥溜(こえだめ)(これは明治三十五年の徳富蘆花の造語で、当時は「糞壺(くそつぼ)」と言った)に転落した。

畑の持ち主の百姓が土下座して平謝りするのに「貴重な肥料をダメにして悪かった(全部を汲み出しただろうから)」と吉宗のほうが謝罪したというのであるから、大した度量である。

当然、丘隅の直訴を咎めるようなことはしない。吉宗は施政の実質的な責任者であった北町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)に丘隅の身柄を託する。

丘隅は大岡忠相の右腕となって、地方(ぢかた)巧者(農政官僚)となって活躍する。

で、享保五年(一七二〇)に農政・民政の意見書『民間省要』全十五巻の執筆を開始し、翌年に完成させる。

これは昭和四十一年(一九九六)に復刻され、アマゾンでも入手が可能である。

この一件で、休愚は支配勘定並に抜擢され、十人扶持を給され、川方御普請御用に任命されて侍になることとなる。

十人扶持は薄給であるが、元々が豪農で、そちらの収入を取り上げられたわけではないから、「侍でもある証明」の名誉給与のようなものである。

丘隅は、荒川の水防工事、多摩川の治水、二ヶ領用水(主として多摩川を水源とし、川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から川崎市幸区までを流れる、全長約三十二㎞の、神奈川県で最も古い人工用水路)、大丸用水(多摩川を水源とし、稲城市および川崎市多摩区を流れる、灌漑用水路)、六郷用水(多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領――現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路)の改修工事、酒匂川(さかわがわ)の浚渫(しゅんせつ)・補修などを行い、下僚として手代三名ないし四名も附属されるようになる。

次いで、富士山の宝永(ほうえい)大噴火(これで誕生した新山が宝永山である)の影響で洪水を引き起こしていた酒匂川治水の功績が認められ、支配勘定格に取り立てられて、三十人扶持を給され、三万石の地の支配を任される。

実質的な代官である。

享保十四年(一七二九)には正式に代官となり、大岡忠相支配下の役人として地元の武蔵国多摩郡と埼玉郡のうち、三万石を支配する。

殖産(しょくさん)政策にも積極的に携わり、橘樹(たちばな)郡生麦村(後に生麦事件の起きたところで現在の横浜市鶴見区)において蝋燭(ろうそく)の原料の櫨(はぜ)栽培の指導をしている。

プロフィール

若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。

 

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