第4回「小説でもどうぞ」選外佳作 パン作り/田村恵美子
第4回結果発表
課 題
記憶
※応募数292編
選外佳作「パン作り」田村恵美子
鏡の中に化け物がいる。
朝、鏡を見るたびに私は顔を背ける。そこには、記憶に残る父の恐ろしい顔がある。酒を飲んでは暴れ、家族に暴力を振るった父。歳を重ねるたびに、私の顔があの男に近づく。
死んだ父のように、妻や三人の子ども達に私も暴力を振るってしまうのではないか。鏡を見るたびに私は怯える。
鏡を見ないように顔を洗っていると、洗面所のドアを開け、妻の成美が声をかけてきた。
「健太、今日は創立記念日で会社はお休みでしょ。一緒にパンを作ろう!」
成美の声は、朝からまぶしい。明るい性格の彼女だが、幼いころに病気で母を亡くしている。その後、父親は再婚した。新しい母や妹たちと成美はとても仲がいい。血は繋がらなくても幸せな家庭はあるのだ。
子ども達が小学校へ登校した後の、ダイニングは静かだ。いつもは散らかっているテーブルの上が、今はさっぱりしている。これから始まるパン作りの作業台に変身した。
成美はよくパンを作ってくれる。彼女の作るパンは本当においしい。
キッチンから成美が大きなボウルを二つ抱えてきて、テーブルをはさんで私の斜め前に立ち、ボウルの一つを私の前に置いた。
「材料はすべて入れてあるから。はい、これはあなたの分。しっかりこねて!」
私は両手をボウルの中に沈めた。ねっとりとした感触、砂遊び気分でワクワクする。
成美をお手本に、私も小麦粉たちを混ぜてからこね始める。しばらくすると、べとべとに暴れていた生地が一塊にまとまってきた。
「健太の方もまとまってきたわね」
成美はそう言うと、小さな器の中の小麦粉をひとつかみ取る。そして、力士のようにそれをテーブルの上に豪快に撒いた。
「これから本格的にこねるわよ」
成美は生地をボウルから取り出しテーブルの上にドカンと置く。そして、生地の端をむんずとつかむと引っ張り上げた。生地はビロ~ンと長く伸びる。今度は伸びた生地の端を鞭のようにテーブルに叩きつける。バシーンという音と共にテーブルが揺れる。伸びた生地を折りたたんで重ね、再び端をつかむとテーブルに叩きつけた。
「三百回くらいこれを続けるの」
成美が生地を叩きつけながら言う。
私も成美の真似をして生地を叩きつける。なかなかの重労働に汗がにじみ始めた時、
「嘘つき! 淫乱! バカやろう!」
突然、成美が叫び始めた。
手を止めて私は彼女を見た。成美は私のことなど気にもかけずにパン生地を叩きつけている。彼女の口からは次々と罵声が飛び出す。
「お母さんに謝れ! 土下座しろ!」
成美の目から涙がポロポロ溢れている。
「お願い、しばらく私のことは放っておいていいから、健太もこねて」
そう言うと成美は生地を叩きつけた。驚きながらも私はだまってこね続けた。成美の罵る声と生地を打ち据える音がリビングに響く。
十分ほど経った頃、何事もなかったような顔をして成美が両手で生地をひっぱり薄い幕を作る。そして、満足そうに頷くと、私の生地も同じように広げた。
「うん、いい感じにこねあがった。じゃあバターを入れるから、またこねてね」
バターが入った生地は、ヌルヌルするので、生地を押し伸ばしては折りたたむようにこねる。二人は無言のまま、ひたすらパン生地をこねる。すると、唐突に成美が口を開いた。
「父が可哀そうだから、私、お義母さんと仲良くしようと頑張ってきたの。だけど……」
成美の低く唸るような声がつまった。
「大人になってから、お義母さんと父は、母が入院中から付き合っていた事を知ったの」
成美の声が震える。
「それから時々、病気で苦しむ母の顔が、頭の中に浮かんでくるの。」
成美の顔は真っ赤になっていた。
「母が苦しんでいるときにあの二人は楽しく会っていたのかと思うと、私、体中の血が煮えたぎって、爆発しそうになるの。あの家族を壊したくなる。でも…… 妹たちのことを思うと、絶対そんなことはできない」
成美にも胸に刺さる棘のような記憶があったのだ。彼女のパン作りの理由を知り、私は成美を無性にギュっと、抱きしめたくなった。
「あっ、手を止めないで! しっかりこねて」
涙を拭いながら成美が言う。私はあわてて生地をこねる。彼女の顔が緩んだ。
「健太に聞いてもらって、少し楽になった」
成美の泣き笑いの顔を見たら、私も衝動がこみ上げてきた。
「話してくれてありがとう。あのぉ、あのさぁ、次は僕の話も聞いてくれるかな……」
(了)
朝、鏡を見るたびに私は顔を背ける。そこには、記憶に残る父の恐ろしい顔がある。酒を飲んでは暴れ、家族に暴力を振るった父。歳を重ねるたびに、私の顔があの男に近づく。
死んだ父のように、妻や三人の子ども達に私も暴力を振るってしまうのではないか。鏡を見るたびに私は怯える。
鏡を見ないように顔を洗っていると、洗面所のドアを開け、妻の成美が声をかけてきた。
「健太、今日は創立記念日で会社はお休みでしょ。一緒にパンを作ろう!」
成美の声は、朝からまぶしい。明るい性格の彼女だが、幼いころに病気で母を亡くしている。その後、父親は再婚した。新しい母や妹たちと成美はとても仲がいい。血は繋がらなくても幸せな家庭はあるのだ。
子ども達が小学校へ登校した後の、ダイニングは静かだ。いつもは散らかっているテーブルの上が、今はさっぱりしている。これから始まるパン作りの作業台に変身した。
成美はよくパンを作ってくれる。彼女の作るパンは本当においしい。
キッチンから成美が大きなボウルを二つ抱えてきて、テーブルをはさんで私の斜め前に立ち、ボウルの一つを私の前に置いた。
「材料はすべて入れてあるから。はい、これはあなたの分。しっかりこねて!」
私は両手をボウルの中に沈めた。ねっとりとした感触、砂遊び気分でワクワクする。
成美をお手本に、私も小麦粉たちを混ぜてからこね始める。しばらくすると、べとべとに暴れていた生地が一塊にまとまってきた。
「健太の方もまとまってきたわね」
成美はそう言うと、小さな器の中の小麦粉をひとつかみ取る。そして、力士のようにそれをテーブルの上に豪快に撒いた。
「これから本格的にこねるわよ」
成美は生地をボウルから取り出しテーブルの上にドカンと置く。そして、生地の端をむんずとつかむと引っ張り上げた。生地はビロ~ンと長く伸びる。今度は伸びた生地の端を鞭のようにテーブルに叩きつける。バシーンという音と共にテーブルが揺れる。伸びた生地を折りたたんで重ね、再び端をつかむとテーブルに叩きつけた。
「三百回くらいこれを続けるの」
成美が生地を叩きつけながら言う。
私も成美の真似をして生地を叩きつける。なかなかの重労働に汗がにじみ始めた時、
「嘘つき! 淫乱! バカやろう!」
突然、成美が叫び始めた。
手を止めて私は彼女を見た。成美は私のことなど気にもかけずにパン生地を叩きつけている。彼女の口からは次々と罵声が飛び出す。
「お母さんに謝れ! 土下座しろ!」
成美の目から涙がポロポロ溢れている。
「お願い、しばらく私のことは放っておいていいから、健太もこねて」
そう言うと成美は生地を叩きつけた。驚きながらも私はだまってこね続けた。成美の罵る声と生地を打ち据える音がリビングに響く。
十分ほど経った頃、何事もなかったような顔をして成美が両手で生地をひっぱり薄い幕を作る。そして、満足そうに頷くと、私の生地も同じように広げた。
「うん、いい感じにこねあがった。じゃあバターを入れるから、またこねてね」
バターが入った生地は、ヌルヌルするので、生地を押し伸ばしては折りたたむようにこねる。二人は無言のまま、ひたすらパン生地をこねる。すると、唐突に成美が口を開いた。
「父が可哀そうだから、私、お義母さんと仲良くしようと頑張ってきたの。だけど……」
成美の低く唸るような声がつまった。
「大人になってから、お義母さんと父は、母が入院中から付き合っていた事を知ったの」
成美の声が震える。
「それから時々、病気で苦しむ母の顔が、頭の中に浮かんでくるの。」
成美の顔は真っ赤になっていた。
「母が苦しんでいるときにあの二人は楽しく会っていたのかと思うと、私、体中の血が煮えたぎって、爆発しそうになるの。あの家族を壊したくなる。でも…… 妹たちのことを思うと、絶対そんなことはできない」
成美にも胸に刺さる棘のような記憶があったのだ。彼女のパン作りの理由を知り、私は成美を無性にギュっと、抱きしめたくなった。
「あっ、手を止めないで! しっかりこねて」
涙を拭いながら成美が言う。私はあわてて生地をこねる。彼女の顔が緩んだ。
「健太に聞いてもらって、少し楽になった」
成美の泣き笑いの顔を見たら、私も衝動がこみ上げてきた。
「話してくれてありがとう。あのぉ、あのさぁ、次は僕の話も聞いてくれるかな……」
(了)