第4回「小説でもどうぞ」佳作 記憶が呼吸しはじめる/瀬島純樹
第4回結果発表
課 題
記憶
※応募数292編
「記憶が呼吸しはじめる」瀬島純樹
ふと浮かんできた記憶に、思わず身震いした。そんなこともあった。思い出したくもない映像だ。もうほとんど忘れていた場面が、どうして今ごろ、よみがえったのだろうか。
あんなことを思い出すなんて、どうかしている。いや、もしかしたら、これはよくないことが起きる前触れではないか。
しつこくまとわりつくハエでも追い払うように、何度も頭を振った。
たしかに、あの時、あの事件に出くわした。まさに歴史的な事件の真っただ中に立たされて、いやおうなしにことの成り行きを目撃するはめになった。
物と物、人と人がぶつかり合う音にかこまれたとき、あまりの衝撃に、生まれつきの臆病さが出てしまった。
とにかく、こんな騒動に関わりになることが怖くなった。いっしょにいた仲間も、それが意味することの重大さも、すべてほっぽり出して、その場から逃げだした。
それからというもの、来る日も来る日も、TVや新聞で事件について報道されない日はなかった。
まるで、歴史に背を向けた不甲斐なさを執拗に指摘されているようで、いたたまれない気持ちになった。
できるだけそれを見ないように、読まないように、目をつむって耳をふさいだ。それは、まさに苦行であり、闘いでしかなかった。
事件のすべてを、記憶から消し去ろうと決心した。はじめから、何もなかったように言い聞かせ、ことさらに忙しく、なすべきことに打ち込み、平凡でなんの変哲もない日常の生活をたんたんと送った。
なのに、今ごろになって、忘れていたあの事件の記憶がむっくりとよみがえって来るなんて。
厄介なのは、一度思い出してしまうと、どうしたものか、一気に現場の息遣いや息苦しいほどの匂いが、何度も再生されてきた。
そうなると、昼も夜もなく、四六時中気になってしょうがない。
なんでもないことで、間違いをしでかしたり、日中も、ほかのことをしながら、つい記憶をたどっていることに気が付いてハッとする。夜中にうなされて、目が覚めると脂汗をかいている。
ああ、こんなことになるなんて。なぜ思い出してしまったのか。
これじゃあまるで、記憶に意志があって、忘れていたことへの復讐を企てているようじゃないか。このままでは、この記憶に押しつぶされてしまう。
いやいやそうなる前に、この悪夢をどうにか封じ込まなければ。だが、どうすればいいんだ。
そう必死に考えはじめると、怖いもの見たさというのだろうか、いまさらながら、どうしてもあの事件について調べずにはいられなくなった。
手もとですぐに入手できる情報から調べはじめた。図書館に出かけて、関連する本や、公開されているかぎりの事件に関する記録にもあたってみた。
夢中になって、おびただしい数の文書と写真の記録に目を通した。
ただ、それはどれも事件の概要の把握には役立ったが、あの時あの場所で、出くわした現場の記憶を裏付けるものは見つからなかった。
ましてや、日々苦しめられている悪夢の記憶を鎮めるためには、なんの役にも立たなかった。
それなら、あとは事件のあった現場に実際に行ってみるしかない。その場所に立てば、記憶を落ち着かせるきっかけが見つかるかもしれない。
とは言っても、逃げて以来、一度も足を踏み入れなかった場所に、なんの抵抗もなく行けるだろうか、正直に言えば不安はあった。
なつかしい最寄りの駅に降りると、恐る恐る歩き始めた。一歩一歩近づくにつれて、不思議な感覚に包まれるのがわかった。
だんだん気分が高揚してきた。記憶も呼吸をはじめ、生き生きしてきた。頭がかっと熱くなってきた。
間に合った。ここに帰ることができた。今なら逃げださず、歯を食いしばって、その場に踏みとどまれる。
いや、傍観などしている場合じゃない。腹の底から声を張りあげ、あの群衆に加わろう。勇気が湧いてきた。なんでもしてやる。
すると、引き留めるやつがいた。なにをする、邪魔をするな、その手をはなせ…
「だめだめ、許可なしに大学構内に入ることはできないよ。聞こえてる、じいさん」
(了)
あんなことを思い出すなんて、どうかしている。いや、もしかしたら、これはよくないことが起きる前触れではないか。
しつこくまとわりつくハエでも追い払うように、何度も頭を振った。
たしかに、あの時、あの事件に出くわした。まさに歴史的な事件の真っただ中に立たされて、いやおうなしにことの成り行きを目撃するはめになった。
物と物、人と人がぶつかり合う音にかこまれたとき、あまりの衝撃に、生まれつきの臆病さが出てしまった。
とにかく、こんな騒動に関わりになることが怖くなった。いっしょにいた仲間も、それが意味することの重大さも、すべてほっぽり出して、その場から逃げだした。
それからというもの、来る日も来る日も、TVや新聞で事件について報道されない日はなかった。
まるで、歴史に背を向けた不甲斐なさを執拗に指摘されているようで、いたたまれない気持ちになった。
できるだけそれを見ないように、読まないように、目をつむって耳をふさいだ。それは、まさに苦行であり、闘いでしかなかった。
事件のすべてを、記憶から消し去ろうと決心した。はじめから、何もなかったように言い聞かせ、ことさらに忙しく、なすべきことに打ち込み、平凡でなんの変哲もない日常の生活をたんたんと送った。
なのに、今ごろになって、忘れていたあの事件の記憶がむっくりとよみがえって来るなんて。
厄介なのは、一度思い出してしまうと、どうしたものか、一気に現場の息遣いや息苦しいほどの匂いが、何度も再生されてきた。
そうなると、昼も夜もなく、四六時中気になってしょうがない。
なんでもないことで、間違いをしでかしたり、日中も、ほかのことをしながら、つい記憶をたどっていることに気が付いてハッとする。夜中にうなされて、目が覚めると脂汗をかいている。
ああ、こんなことになるなんて。なぜ思い出してしまったのか。
これじゃあまるで、記憶に意志があって、忘れていたことへの復讐を企てているようじゃないか。このままでは、この記憶に押しつぶされてしまう。
いやいやそうなる前に、この悪夢をどうにか封じ込まなければ。だが、どうすればいいんだ。
そう必死に考えはじめると、怖いもの見たさというのだろうか、いまさらながら、どうしてもあの事件について調べずにはいられなくなった。
手もとですぐに入手できる情報から調べはじめた。図書館に出かけて、関連する本や、公開されているかぎりの事件に関する記録にもあたってみた。
夢中になって、おびただしい数の文書と写真の記録に目を通した。
ただ、それはどれも事件の概要の把握には役立ったが、あの時あの場所で、出くわした現場の記憶を裏付けるものは見つからなかった。
ましてや、日々苦しめられている悪夢の記憶を鎮めるためには、なんの役にも立たなかった。
それなら、あとは事件のあった現場に実際に行ってみるしかない。その場所に立てば、記憶を落ち着かせるきっかけが見つかるかもしれない。
とは言っても、逃げて以来、一度も足を踏み入れなかった場所に、なんの抵抗もなく行けるだろうか、正直に言えば不安はあった。
なつかしい最寄りの駅に降りると、恐る恐る歩き始めた。一歩一歩近づくにつれて、不思議な感覚に包まれるのがわかった。
だんだん気分が高揚してきた。記憶も呼吸をはじめ、生き生きしてきた。頭がかっと熱くなってきた。
間に合った。ここに帰ることができた。今なら逃げださず、歯を食いしばって、その場に踏みとどまれる。
いや、傍観などしている場合じゃない。腹の底から声を張りあげ、あの群衆に加わろう。勇気が湧いてきた。なんでもしてやる。
すると、引き留めるやつがいた。なにをする、邪魔をするな、その手をはなせ…
「だめだめ、許可なしに大学構内に入ることはできないよ。聞こえてる、じいさん」
(了)