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第4回「小説でもどうぞ」佳作 大切なもの/高橋徹

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第4回結果発表
課 題

記憶

※応募数292編
「大切なもの」高橋徹
 私は、思い出そうとしていた。ところが困ったことに、なにを思い出そうとしているのかがわからない。喉まで出かかっているのに出てこないのだ。あきらめてしまえばよさそうなものだが、悔しくてそれもできない。それに、とても重要なことだったような気がするのである。
 しかたなく、妻に聞いてみることにした。
「なあ、なんだっけ?」
「なんです?」
「ほら、アレだよ」
「アレじゃわかりませんよ。なんですか? 今、夕食の支度で忙しいのですよ」
 アレがなになのかわかれば苦労はしない。
 ――結婚して四十年近くつきあっているのだ、わかるだろう、なぜわからないのだ。
 悪態をつきたくなる。だがそれを口にすると喧嘩になるのは間違いない。
「何百年つきあっていても、わからないものはわかりません」
 いままでに何度も聞いた妻の決まり文句だ。考えてみれば“わかれ”と言う方に無理がある。それは、わかっている、だが……。
 私は焦った。思い出さなければいけない、という思いだけが頭の中をかけ巡る。こんなことなら、すぐにメモにでも書いておくのだった。
「ちょっと出てくる」
「いまからですか? もうすぐ夕飯ですよ」
「すぐもどる」
 実は、思い出せない内容は、今朝ウォーキングをしている最中にひらめいたことだったのだ。もう一度歩いてみれば、思い出すのではないかと考えたのである。だが、それは文字通り徒労に終わった。二十分ほど近所を巡ってみたが、記憶は戻らない。
「ただいま……」
「おかえりなさい。元気を出してくださいな。ほら、もう食べられますよ」
「ああ、手を洗ってくる」
 蛇口をひねりながら、他の方法を考えた。
 ――そうだ、アイウエオ順に口にしてみるはどうだ。もうここまで出かかっているのだから、最初の一文字でなんとなくわかるだろう。そいつが出れば、パッとひらめくはずだ。これでダメなら、絶望的だが……。
「ア、ア、イ、イ、ウ、ウ、エ、エ……」
「なにをやっているのですか?」
 開けっ放しの洗面所のドアから顔をのぞかせた妻が聞いてきた。
「最初の一文字をさがしている」
 当然彼女は、あきれたような顔した。そりゃそうだ、自分でも、おかしいのではないかと思っている。
「……サ、サ、シ、シ、ス、ス、セ、セ……」
 くだらん、こんなことで思い出すわけはないのだ。
「わかりましたの?」
「ソ、ソ……」
「ソレで、どうなのです?」
 余計なことを聞くな、わかったのなら、もう少し嬉しそうな顔をしているだろう。
「ダメだ、わからん……」
「いいかげんに、あきらめたらいかがですか?」
「そうはいかん、とても大切なことだ……と思う……」
「はいはい、大切なことにはなかなか気づかないものですよ、さあさ、いいかげんにして、そろそろ夕食にしますからね」
 私は、意気消沈し食卓へ向かった。
「今日は、ステーキですから、焼きたてを食べてくださいね」
 妻が、フライパンを温めながら言った。
「なんだ、どうしたのだ、何かいいことでもあったのか?」
「あらあら、お忘れなのですね、今日はあなたの誕生日ですよ」
 ――え? そうなの? いやそうだ、そうだった、そうか、そうか……。
「それだぁっ!」
「あら、思い出せなかったのは、ご自分の誕生日のことだったのですか?」
「おかげでやっと腑に落ちた。しかし、惜しかったなあ、次がタ行だったのだが……」
「え、なんのことです?」
「いや、いいのだ、思い出せてよかったよ」
「では、ビールつぎましょうね、思い出したお祝いもかねて、ハイ、お誕生日にカンパ~イ」
 ジョッキが触れ合い、硬く透明感のある音をたてた。泡立つビールに口をつける妻の顔を見つめながら、私はいままで思い出せなかったことに安堵した。
 まさか、「実は思い出そうとしていたのは君の誕生日プレゼントのことだった」とは、言えるはずもなかったのである。なるほど、大切なものにはなかなか気づかないものなのだ。
(了)