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のどからから

#第34回どうぞ落選供養 めっちゃ面白いとおもうんだけどな!!!   『最後の夢のつづき』 「最後の夢を見たんだ」と鴨下は言った。 「夢に最後があるものか。今日の晩に眠ったらまた新しい夢を見る。もし今日夢を見なくても明日の晩には夢を見る。もし明日夢を……」 「これは絶対に最後の夢なんだ」鴨下は私の話を遮り、やけに透き通った目で言う。「うまく説明できるかわからんが、もうこれ以降夢を見ることはない。そういう夢を見たんだ。信じられない気持ちもわかるが、そうとしか言えない」 鴨下はシャツの袖を捲ったり引き伸ばしたりしている。最後まで残しておいたプリンのさくらんぼを食べ、もぞもぞと口を動かして種と戯れる。それに飽きると、ナプキンを手に取りぺっと吐き出す。「しかしまあ、名残惜しいなあ」と呟く。 空調の効きすぎた喫茶店である。その端の席で、私は脂ぎった五十がらみの男と向き合っている。氷の溶けきったアイスコーヒーは水っぽく、琥珀色に透き通っている。 「そういえば」私はふと思い出したように言う。「昔よく見た夢があった。人気のない公園で、ひとりブランコを漕いでいると、どこからともなく男がやってきて、飲み物を買ってあげるからついてこいと誘ってくる。ひどく喉が渇いていて、私は多少訝しみながらも立ち上がる。男は私に背を向け、そそくさと公園を離れる。私は幼い足取りでその男についていく」 私と男は細い路地を黙って歩いている。真っ赤に染まった空が薄闇に包まれ、蝉の鳴き声がカラカラと響く。パリッとしたスーツを着込んだ男は均整のとれた身体をしている。歩きながらその背中をじっと眺めていると、ここはいかにも都会的なこの男が馴染むような町ではないと思う。 「どこにいくの?」と幼い私は男に尋ねる。男は黙ったまま、あかあかと光る自動販売機を通り過ぎ、家と家の隙間を抜け、舗装されていない小道へと歩を進める。 「喉が渇いた」と私は言い、小さな家の玄関に腰を下ろす。男はなお黙って歩き続ける。「喉が渇いた」と少しばかり声を張り上げて私は言う。男は静かに振り返るが、その顔は暗闇に溶け込んで窺うことができない。「あと少しだよ」と低く優しい声がして、男は再び歩き続ける。私は足元の小石を蹴飛ばし、空っぽのポケットに手を突っ込んで重い腰を上げる。 「延々と男についていくんだが、どこにも辿り着くことはない。夢は気がついた時にもう始まっているというけれど、それと同じようにこの夢は気がついたら終わっている。いつの間にか私は食卓にいて、母親が作ってくれた目玉焼きを食べている。夢を見ていたことは忘れてしまって、やり損ねた宿題やら喧嘩した友人の顔やらを思い浮かべながら学校へと向かう準備をする」 鴨下は私の話を興味深そうに聞いていた。目を閉じて空っぽのグラスを啜り、要所要所で頷く。口を開くことはないが、時折緩む唇は笑っているようにも見える。 「そんな夢を小学生の頃によく見ていたんだ。今になるまで忘れていたけれど、何度も見るそれは間違いなく悪夢だった」 「散々だな」と鴨下は言う。 「そう、散々だった」 鴨下はポケットから黒いハンカチを取り出して額の汗を拭い、それを綺麗に折りたたんでテーブルの上に置くと、小便に行く、と言って席を立つ。私はその後ろ姿を眺めやる。白いシャツは汗で滲み、下に着込んだタンクトップの輪郭が透けている。ズボンの後ろから裾が出ていて、ひらひらと舞う白い布地の向こう側に水色のボクサーパンツがちらと見える。 堕落した中年の体型だな、と思う。しかし近いうちに私の身体も鴨下のようにだらけきった肉体を晒すことになるだろうと考えると、少し憂鬱な気分になる。気まぐれに自分の腹を叩いてみると、ポコポコと軽い音を立てた。肉体の劣化はすでに始まっているらしい。 パチンと弾けるような音がして、突然に店内の照明が消えた。停電だろうか。ほんの一瞬、冷ややかな沈黙がその場を支配すると、隣に座る女性の漏らす「何?」と言う声が客たちを触発し、何も見えない真っ暗な中で小さな騒ぎが巻き起こる。グラスの割れる音と、「痛っ」と声を上げる男の声。「財布ない!」と喚き立てる掠れた高い声は、暗闇で小狡く動き回る足音に向けて発せられているらしい。 私は手元のバッグを引き寄せ、その中身を確認しようと奥をまさぐってみる。しかしその中に財布と思しき手触りを感じることができない。 やられたか、と思う。照明が消えてからわずか一分余り。近くに人が忍び寄ってくる気配はなかった。これはなかなかの玄人だ。そう感心こそしてみるが、しかし財布を盗まれたとなるとそうも悠長なことは言っていられない。 もしかしたら家に置いてきたのかもしれない。そういう楽観が頭によぎり、いやいやもっと現実を直視しなければならないと自分に言い聞かせていると、再びパチンと弾けるような音がして、店内に黄色い明かりが灯される。膝の上には薄汚れた水色のバッグがあって、その口は大きく開いている。中には雑草やら空き瓶の蓋やら水の滲んだキャンパスノートやらが入っている。使い古された砂っぽいこのバッグは、もういつから使い続けているだろうか。 何事もなかったかのように化粧室から出てきた鴨下が私の前に座る。 「ずいぶん長く歩いたね」と鴨下は言った。

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