#第35回どうぞ落選供養 黒田さま、ご連絡ありがとうございます。団塊老人の投稿者です。発表の場を与えてくださり、大変感謝しております。 これまでもずいぶん無茶な投稿をして失礼しました。 と言うことで、落語「長屋の花見」にヒントを得たショートショートですが、よろしく。 掛け声名人 江戸の大川、現在の隅田川では、旧暦の五月二十八日の両国川開きに花火が盛大に打ち上げられた。当時、名人と呼ばれた花火師に鍵屋と玉屋があった。両国橋の上流で玉屋、下流で鍵屋が花火を打ち上げ、その華麗さを競ったのだ。そしてこの花火に色を添えたのが、見物客の「タマヤー、カギヤー」の掛け声である。 江戸随一の掛け声名人と言われたのが、本所権六長屋の住人熊吉だ。熊吉の声は、相撲の呼び出し勘太よりも甲高く名調子で、狼の遠吠えよりも遠くまで響き渡ったと言う。ひと声「タマヤーッ」と叫ぶと、大川の水面にさざ波が起きたとさえ言われている。 が、川開きが近づき、掛け声名人の熊吉は重い病に臥せてしまった。なにせ年は古希を過ぎており、江戸時代としてはずいぶんな老人である。息子の八五郎が世話をしているが、病状はかんばしくない。長屋の連中も、熊吉の容態は気になっていた。川開きの前日には、長屋の世話人平蔵もやってきて声をかけた。 「おおい、ハチ、父つぁんの具合はどうなんでえ」 「まあ、干からびた大根みてえに布団に転がってら」 「困ったもんだなあ。明日の両国の川開き、おめえの父つぁんがいなけりゃ始まんねえが、そんな様子じゃ、もう無理かな」 その時、衝立の向こうからしわがれた声がした。 「ヘイさんか、花火、行きてえ」 「あれ、父つぁんの声じゃねえか。起きてるのか?」 「ああ、寝てるが起きている」 「どうでえ、按配はそんなに悪いのか?」 「悪いのなんの、足腰が立たねえ、目がかすむ、耳鳴りはする、大声は出ないで、もう踏んだりけったり。でも花火は行きたい」 「行く気さえありゃ心配するこたねえ。なんなら大八車も用意するぜ」 「すまねえな。川開きまで寿命があったとなりゃ、花火を見なきゃ、死んでも死にきれねえや。ああ、タマヤー、カギヤーと叫びたい」 「わかったわかった、長屋のみんなで今年の花火のできをしっかり見比べようじゃねえか。医者の玄庵先生も連れて行きゃ安心だ」 というようなことで、熊吉は翌日まで何とか命を永らえることができ、その夕刻には大八車に乗せられて長屋の一同と両国橋へ向かった。 「なあ、父つぁんよ。ここからなら玉屋の花火がよく見えるぜ。けど、目の方は大丈夫かい」 「あたぼうよ。こちとら江戸っ子でえ。目なんか見えなくても音を聞きゃ目に浮かぶさ」 花火が上がるのは夜の帳が下りてからのこと。大都会の江戸とはいえ、当時は今のように明るくはなかった。提灯や行燈の灯りしかない時代に、花火は天をも焦がす明るさであった。 シュルシュルシュル、ドーン。 花火が打ちあがるたびに、大きな歓声や掛け声がそこかしこから上がった。 「タマヤーッ、カギヤーッ」 シュルシュルシュル。 「おおお、また上がった上がった」 ドーン。 長屋の連中は花火に夢中で、熊吉のことを、もうすっかり忘れていた。 「ああ、叫びてえ、もう一度タマヤーッと」 ほとんど声の出ない熊吉は、大八車に横たわりつぶやいた。と、その時、熊吉のすぐそばに青白い顔をした幽霊のような男が現れた。 「なあ、父つぁん、ここからじゃよく見えねえんじゃないか」 「なんだ、おまえさんは?」 「冥土からのお迎えだよ。さあ、一緒に天に登ってって、花火を間近で見ようじゃないか」 「天に? そうか、上に登れば、よく見えるか」 「ああ、よく見えるさ。わしの手にひょこっと掴まってみな、花火の開くすぐそばまで連れてってやる」 「本当か」 「ほれ、この手だ。さあつかまって」 「掴まる力はないけど」 「かまわねえ、身体はうんと軽くなっているから。そーら」 熊吉は、冥途の迎えの手に掴まった瞬間、まるで木の葉のように大川の上空へ舞い上がった。 「あああ、ほんとだ、どんどん上っていく」 「どうだい、ここは一等席だぜ。花火がよく見えるだろう」 シュルシュルシュル。 「ほーら、上がってきたぜ」 ドーン。二人のすぐそばで花火が開いた。 「ウワオー、すげえ花火だ。こんな間近で花火をみるのは始めてだぜ。まったくこの世のものとは思えねえ」 「そりゃそうさ、もうあの世だからな」 「ああ、叫びたい。けど、声が出ねえ」 「大丈夫さ。今生の別れに叫んでみな。最後にひと花咲かせてみりゃいい」 そうこうしているうちに最後の一発が夜空を染めた。冥土の使いの言葉に後押しされ、熊吉は渾身の力を込めてひと声叫んだ。 「タマヤーッ」 その声はまるで雷鳴のように天空から地上に響き渡った。 長屋の連中たちは、空から響き渡る声を聞いて驚いた。 「なんだなんだ、ありゃ熊吉つぁんの声だ」 「ハチの父つぁんだ。いい声だなあ。まさに掛け声名人」 と、長屋の連中は声に聞き惚れると同時に、大八車に横たわっている熊吉のことを思い出した。そしてみんなの目が向かう。 「あれ、父つぁんの様子、おかしいぜ」 「玄庵先生、どうなんだよ」 「ご臨終ですな」 一方その上空では、冥途の迎えは、自分の腕に掴まっている熊吉に声をかけた。 「どうでえ、花火を十分堪能したかい」 「ああ、いい冥途への土産ができたよ」 「じゃあ、出かけるぞ」 「おっといけねえ、忘れ物だ。わしの身体をおいてきちまった」 「いいんだよ、父つぁんの身体は娑婆への置き土産だから」 終わり
星野芳太郎