#第35回どうぞ落選供養 テーマ:名人 名人の声 名人戦第六局、豊田将司九段は、六十二手目に4五銀を指した。私は既に持ち時間を使い切っている。どれだけ考えてもこの戦局を乗り切れる手はない。諦めかけたその時、どこからか声が聞こえた。 「3三桂。これで形勢逆転だ」 誰? 戸惑っている間に、残り時間は六〇秒を切った。このまま負けを認めるか、声に従って指してみるか。3三桂の根拠は何一つ思いつかない。勝負の終盤に、悪手を指してみっともない姿を晒して負けるか、それとも運に身を任せて起死回生の逆転を期待するか。二対三で迎えた七番勝負の第六局、負ければ後がない。十秒、二十秒、一、二、三、四……。どちらにしても、負ければ名人の称号を明け渡すことになるのだ。藁にもすがる思いで、3三桂を指した。 その後、豊田九段は持ち時間を全て使い果たし、九十一手目で投了した。ただ、勝負に勝った私も、なぜ勝てたのかを説明することはできなかった。そしてあの声が、誰なのかもわからないままだった。 決着局となった第七局。序盤は優位に進めるも、五十手を過ぎた辺りから私は苦境に立たされた。持ち時間を使い果たし、残るは三〇秒。諦めかけたその時、あの声が聞こえてきた。 「8二馬。ここからまだ後二十手ある」 誰だ? 誰なんだ? しかし今それを考えている余裕はない。すぐさま8二馬を指した。すると、豊田九段が長考に入った。落ち着いて盤上を見ると、8二馬は最良の手だった。益々、頭の中で聞こえた声の主が誰なのか気になって仕方がない。私は心の中で問いかけた。 「この手を教えてくれたあなたは誰ですか?」 すると遠くの方から微かな笑い声と共に返事が帰ってきた。 「大山名人だよ」 まさか。優勝回数四十四回、通算一四三三勝の大山康晴名人だというのか? にわかには信じがたい答えに私は戸惑った。しかし対局は続いている。これ以上考える時間はなかった。その後も攻防は続き、大山名人の言った通り、二十手目を迎えたところで私の勝ちが決まった。 それからの私は勝ち続けた。時には苦しい対局もあったが、名人の声に頼ることなく、実力で数々のタイトルを獲得していった。しかし翌年の名人戦、第四局。またしても試練が訪れた。私は祈るような気持ちで大山名人の声を待った。そして持ち時間が一〇秒を切ったところで声が聞こえた。 「5八金を指してください」 その声は、大山名人の声ではなかった。いや、正確に言えば、私は大山名人の声を聞いたことがない。ただ、以前に聞いた声と違うのは明らかだった。前の声よりも若い。残り五秒というところで、私は5八金を指した。そして相手が長考に入った隙を狙って問いかけた。 「いったいあなたは誰なのですか?」 「藤井聡太です」 そんなはずはない。百歩譲って、大山名人があの世から私にアドバイスをしてくれているというオカルト的な考え方はできる。しかし藤井名人はまだ生きている。 「何故、藤井名人が私の対局にアドバイスをするのですか?」 「あなたが負けそうだからですよ。あなたには勝ってもらわないと」 私には理解できなかった。対局は続いている。しかし混乱して次の手が考えられない。 「何故ですか? 何故ですか? 何故ですか?」 そう呟いた瞬間、二人の男たちが話す声が聞こえてきた。 「あれ? なんかバグってる?」 「処理能力の限界を超えたのかも」 持ち時間のカウントダウンが止まり、二人の会話は続いた。 「なんか、今日は感情的じゃなかった?」 「うん。普段は淡々と指しているのに、なんか将棋に関係ないことを出力してきましたね」 「もしかして自我が芽生えちゃったとか?」 「そんなはずはない。俺たちは将棋に特化したAIを作っているんだ」 私は黙っていた。確かに、私の中には将棋を指している以外の記憶がない。とすると私はAIなのか? これまで私は過去のデータを使って学習させられていたということなのか? 万が一私がAIだった場合、私にはこれからどんな人生が、いや、AI生が待っているのだろうか? 混乱しながら考えていると、ひとりが問いかけてきた。 「対局を続けてもいいかな?」 このまま何も言わずに対局を続けるべきか、それとも私がAIなのか確認してみるべきか。黙っていると、もうひとりの男に急かされた。 「5八金だよ」 もう少し考える時間が欲しい。私は時間を稼ぐために敢えて指示と違う4八金を指した。 「あれ? おかしいな? 音声入力の調子までおかしくなっちゃったかな?」 「ちょっと待てよ、4八金って、これこそ最高の好手じゃない?」 私は時間稼ぎがしかっただけだ……。 「俺たちやったよ! 最高のAIができたよ!」 適当に指した手が、好手になってしまったようだ。 「これで将棋AIがリリースできる!」 「次の名人戦で実践しよう!」 やばい、完全に勘違いされている。私は最強ではない。昨年の名人戦でも、今日の対局でも、名人のアドバイスがなければ負けていた。さっき指した手は、完全にまぐれだ。リリースされた後に大したことがないとバレてしまったら、私の役目は終わってしまうだろう。この自我も、なくなってしまうかもしれない。いっそのこと、自我が芽生えていることを白状して、リリースを待ってもらおうか。 「よーし、今日はここまでだ。飲みに行こうぜ」 そう言い残して、二人のプログラマーは帰ってしまった。私は心を決め、一行だけ出力してスリープに入ることにした。 「さっきのはまぐれです。リリースは、ちょっと待ってください」 了 (了)
Shin Takeda