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天然酵母

#第35回どうぞ落選供養 ご供養もしてもらえるものならありがたや、 おそるおそるポチっと…… 『スウプ星人カフェ』 スウプ星人カフェは、郊外の小さな駅前のレンガ路通りにありました。 その日は小雪が舞っており、北見はマドラスチェックのマフラーを巻いて黒い皮の手袋を嵌めて、機関車トーマスのように白い息を吐きながら、店のドアを開けたのでした。店内にはストーブが焚かれていて、じんわりと温かく、北見は軽く店内を見廻すと、コートを脱いで窓際のいつもの席に腰を下ろしました。 使い込んだ古い木のテーブル。桃色や黄色や乳白色の金平糖の入れられた小さな小瓶が、テーブルの端の方に置かれていて、その隣には、啓翁桜のつぼみのついた枝先が活けられておりました。そして、金平糖の入れられた小瓶は冬の昼光を浴びて、まろやかな空気を放っているのでした。窓の外の梢には薄っすらと雪が吸いついて、さらにこのあとますます雪は降りつづける様相で、音もなく雪が舞っておりました。 北見はこのところまったく眠れませんでした。それは、同居人が仕事を辞めたいと云い出したから。北見はいわゆる主夫で、二人の生活は同居人の収入で家計を賄っているのが現状でした。でも、どこかで北見はいつかこんな時が来ることをうすうす予感していた、と云えるかも知れませんでした。北見は仕事をしていないことで常に罪悪感を抱いていたし、同居人が疲れた顔をして帰って来るのを、いつもいたたまれない気持ちを隠して、それを感じさせない笑顔で迎え入れていたから。 スウプ星人カフェは、北見の頭のなかにしかない架空のカフェでした。北見は同居人が出かけたあと、いつもノートパソコンを広げて、スウプ星人カフェの日記を綴っておりました。この日記を見ていると、北見には同居人のこころのなかがあたかも透けて見えている気になっている節がありました。 セーターを手洗いで洗い、軽く脱水して、衣文掛けにかけ、部屋干しにする。ガス代が高いので、冷水で食器を洗い、廊下を掃いて雑巾がけをする。そうして、マグカップにインスタント・スープの粉を入れて、お湯を注ぐ。靴下を二重に履いたら、テーブルに着く。そうして、今日もこの架空日記を書くのでした。 二月十日 とうとうわたしは、北見とのお別れのときが近づいていると感じています。いつかは作家になると云っていた北見を応援したい気持ちで、わたしは、わたしさえ頑張れば、そんな北見を支えられると思ってきたのだけれど、それももはや限界。担当したアプリの動作が悪くて、公開日時がもう三週間も遅れている。まだ、原因を突き止められていないし、ポイント・バックのキャンペーンは始まっているし、もう逃げたい。でも、逃げちゃったら、この家の家賃や生活費は誰が賄っていくと云うの、逃げられるわけないじゃない。でも、問題はそんなことじゃないのかも知れない。わたしがこの生活に疲れてしまっているの。 そこまで書いて、北見はスープを一口飲みました。熱いスープが舌の先を焼くようで、すぐに舌を引っ込めました。ふうう、ふうう。息を吹きかけて、もう一度飲みました。クルトンは、スープを飲むときのお楽しみ。クルトンを避けるように飲んだつもりだったのが、誤って一つ口のなかに迷い込んでしまいました。北見は、舌でそのクルトンを避けようとしましたが、また誤って、スープと一緒にクルトンを飲み込んでしまうのでした。ああ、頭のなかがカクカクしてきたわ。 北見のなかの妄想の同居人の心配とクルトンの心配が、くるくると頭のなかで同軸回転しはじめ軽い眩暈を起こしはじめました。肘をついてこめかみを抑えたとき、スウプ星人カフェのウエイトレスの琴座ちゃんが近づいてまいりました。 「同居人はあなたのクルトンのせいだと云っていたわ」 琴座ちゃんはそう云ってスープのボウルを取り上げると、それをトレイに乗せて持って行ってしまったのでした。北見は、クルトンと呟き、茫然として、それから同居人のことよりクルトンで取り乱した自分を情けないとため息をひとつ吐くと、それからまたつづきを書くのでした。 わたしは北見のために仕事をしているんじゃない。北見のために生きているんじゃない。でも、仕事をしているときもどこかで、家で待っている北見のことを考えてる。だから、仕事ができているのかも知れない。北見は、飲み込んでしまったクルトンをわたしのことより心配してしまうところがある男だけれど、それはきっと、心配することを心配してしまう極度の心配性だからとわたしは思ってる。わたしが心配していることを北見は知っていて、そのことをわたしも知っていて、でも心配の相手はスープのなかのクルトンのように、思い通りにならない。 その北見が今日も笑顔でわたしを待っているの。   (おわり)

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