#第35回どうぞ落選供養 大好きな小説家様に読んで頂きたかったのですが、力が全く足りず…。〈悩み〉がテーマの回に落選したものを供養させて頂きます。 (貼り付けの際に段落下げが全て消えてしまい、手入力しようにもサイトが重過ぎて何度も固まってできず、読みにくくてすみません…) 伴う 向井 春七 悩みの種が産声を上げる。産まれた瞬間はそれが悩みの種なのだとは気付かなかった。 狭い部屋の中、聞こえ過ぎるほど聞こえているのに、私の耳には届いていないものだと信じ込んでいるように泣き喚く。耳を塞ぎたくなるその大声から逃れられる場所はない。それは深夜であってもだ。睡眠を妨げられ、細切れの浅い眠りは悪夢を呼ぶ。 悩みの種は私の外出を困難にする。遠出を不可能にする。外泊や旅行を夢のまた夢にする。労力を費やしようやく隅へ片付けた物さえ、片端から引っ繰り返し辺りに散乱させる。安息の場所など何処にも作り得ない。 悩みの種と共に暮らし始めてから、私は当然のように健康を損なった。朝も夜も身体の至る所が痛み、声の無い悲鳴を上げ続けた。胃はあらゆる食物を受け付けなくなり、便器を抱えて蹲る時間が長くなった。そして、悩みの種のために私は仕事を失った。苛立ちは募り、絶望が深まった。 だが、憎もうとも恨もうとも、目下、この日々に終わりはない。悩みの種が腹を空かす。私はそれにせっせと滋養を与え、肥えさせる。休むことなく細胞分裂を繰り返す悩みの種は日毎に体積を増やし、狭い部屋の中で幅を取り、新たな苦悩を授けてくる。 部屋に閉じ篭る毎日に焦りを抱き、重い身体を引き摺り散歩に出掛けた公園で悩みの種を遊ばせていると、それを見ていた高齢の婦人が、可愛い、と頬を緩めた。私は泣きそうになった。 煩わしくて堪らないこの悩みの種に、私は名を付けている。馬鹿みたいに希望を詰め込んだ名を。何故だろう。何の意味があるのだろう。 悩みの種など、無い方が楽に生きられるに決まっているのに。 ある日、悩みの種が唐突に言葉を喋った。それは、点けっ放しのテレビの前、私が誕生日プレゼントに買ってやった絵本を小さな指で指し示しながらだった。私は履いていたスリッパで躓きそうになりながら、ソファに座る悩みの種の方へ駆け寄った。在り来りな言葉では表現し得ないほどの喜びを感じていた。私の反応が面白かったのか、褒められて気分が良かったのか、悩みの種は大人とは微妙にずれた発音の仕方で得意気に何度も繰り返した。わんわん、わんわん、と。絵本には幼児番組で人気のある、犬の着ぐるみのキャラクターの絵が描かれていた。 初めて言葉を発したその瞬間に立ち会い、他にも日々の成長の場面に立ち会い、私は報われたのか。どうだろう。解決した悩みなど一つもない。そして今でも悩みの種は食事中に椅子の上に立って暴れ、どれだけ危険を説いても聞こうとしない。感染症で高熱を出している私が早く寝るよう促しても追い立てても懇願しても、一足先に感染症から回復した悩みの種はまだ遊んでいたいと駄々を捏ね泣き叫ぶ。 けれど、窓ガラス越しに見る保育器の中で小さな手足を不器用にばたつかせるだけだった悩みの種が、今では二本の足で隣を歩くようになった。そして跳ねるように歩きながら、建物の隙間から見える窮屈で仕方ない空を指差し、お空の雲を食べたい、と言う。この子には今、無限の可能性があり、これから成長するにつれ数え切れないほどの挫折を味わっていくのだろうと考えると、自分の中の一切のペシミズムを凌駕する瞬間がある。上々だったとは言い難い自分の人生でこつこつと積み上げてきた価値観が、乱暴と言ってもいいぞんざいさで覆される。それは実に恐ろしいことだ。恐ろしいほどの希望だ。 保育園からの帰り、スーパーマーケットに寄った後で子が、電車が見たい、と線路脇の歩道から動かなくなった。急いで夕飯の準備をしないとならないのにと私は途方に暮れる。金網に張りつく小さな背中を恨めしく思いながら見つめ、早くここから動いてくれないだろうかと祈りにも似た気持ちを抱く。 私はこの悩みの種を生涯に渡って否が応でも愛し続けてしまうのか、それとも愛し続ける努力を必要とする時が来るのか。重いレジ袋が手に食い込むのを感じながらふと考える。けれど今は分からない。 ともかくしばらくの間は、苦しみを伴い、喜びを伴いながら、私は貴方に伴う。いつまでだろう。それが終わる時、達成感や解放感を覚えるだろうか。それとも、寂しさを覚えるのだろうか。それも今は分からない。 地面を震わせ風を起こしながら電車が通過していく。子がはしゃぎ、電車を追いかけ走り出す。私も後を追う。不恰好に身体を揺らす度、肩から提げた鞄が腰の骨を打ち、手に持ったレジ袋も無遠慮に重さを増す。子の背中は傾きかけた太陽に照らされて橙だ。先を行くその背中の方へ無意識に伸ばした私の手は、引き留めるというより前へ押し出すように見えた。実際には届いておらず宙を掴んでいるだけのその手にまさか本当に押されたわけでもないだろうが、子は斜め前へと長く伸びる私の影から脱け出すように先へ向かっていく。 もっと速く、私では追いつけないくらい速く、走っていけばいい。軽やかに進んでいく子に追いついてしまわない速度で、私は足を一つずつ前に出す。もう見えなくなった電車が、どこかずっと遠くで警笛を鳴らすのが微かに聞こえた。
向井 春七