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いぬとび

『ゴミ収集』 担当の地区へ岩本さんの運転で向かっている最中、おなじみの曲がスピーカーから流れ出し車内を満たし始めた。その曲はゆったりとしたテンポで、歌う女の声は妙に甘ったるい。歌詞だって、疲弊しきった自身の心が惨たらしいほどの黒いシルエットとして地面に伸びる水曜の朝には到底似つかわない。その曲は夜光虫が揺れる夜の海辺、心許なく光る一つの外灯に照れされた公園のベンチ、室外機がしんみりと黙り込んだ星月夜のベランダ、そういったところで聴くのが好ましいもののように僕には感じられていた。 その曲のAメロとBメロの間で、岩本さんが鼻から大きく息を吸い口から吐いた。ぐうっと肩が下がり、首が下がった。その情けない様相は、僕に一つの予感をはっきりと感じさせた。 予感をはっきりと感じるという表現に我ながら違和感を覚えないわけではない。ただ、こう表現するより他がないのも事実だった。言ってしまえばこれは、移り変わる季節に対する予感となんら変わりないのだ。今年も夏はやってくるとわかっている中で、僕たちは晩春の風の中に夏の予感を確かに感じ、高揚する。夏はもうすぐそこまで来ていると確信する。 このときの僕だってそれと同じような状態だった。僕だって確信していた、となりに座る岩本さんが恋をしつつあるということを。 「岩本さん、何かあったんですか?」 こうなると、そう訊くのが後輩としての僕の役目でもあった。 岩本さんはまた息を吸って吐き、少し躊躇うような間をつくってから口を開いた。 「……恋ってのはさ、なんかさ、ゴミ収集と似てるんだよな」 変わったばかりの赤信号を見つめるその表情は儚げだった。小さな舟で大海原に放り出された青年が、どうすることもできずにただひたすらに夕日を眺めているといった構図だった。右も左も、前も後ろも水平線。空に浮かぶ夕日の裏の、これまでの思い出の日々を振り返ることしかできずにいる青年。きっと岩本さんも、あの赤信号の裏の過去を思い返しているに違いなかった。 「最後まで大切に使われ続ければいいんだけど。結局は捨てるか、捨てられるかなんだよな」 掠れた声は感傷的で、どことなく偽善的な響きを含んでいた。岩本さんの心の奥底にある本心を隠すように、エンジン音が唸りを上げ、ゴミ収集車は走り出した。 気づけば、信号は青に変わっていた。 「でもさ、誰かにとってのゴミでも、また別の誰かにとっては利用価値のあるものだったりするんだよな。本当のゴミか、リサイクルできるのか、そこをもっとうまく判別できるようになれば、この世の中はもっとクリーンなものになるのかもしれないな」 山のように積まれたゴミ袋をゴミ収集車に放り込みながら岩本さんが言った。最後に諦観した微笑みを見せたがために、その言葉は一瞬にして冗談とも本音ともとれない曖昧なものとなった。そして僕は、このような人間が増えているからゴミかそうでないかを判別するのが難しいものとなっているのではないのだろうか、とふと思った。 「先週のこの時間、電話が鳴ったんだ。しかも、知らない番号から」 担当の地区のゴミ収集を終え、ゴミ処理場へ向かっている最中に岩本さんが話し始めた。もちろんそれは恋の顛末と関係するものであり、起承転結でいうところの起の部分だった。 車を路肩に止め、電話に出ると、電話口には女性が出た。風が吹けばどこかに飛んで行ってしまいそうなか弱い声に、岩本さんは自身の脳細胞を総動員させたが、記憶の中にその声の持ち主はいなかった。昔から素行の悪さを注意されることはあったそうだが、記憶がなくなるまでお酒を飲んだことは一度としてないらしい。ではどうして自分の電話番号をその女性が知っているのか、疑問を抱いた。 ——あなたの同僚さんに私の知り合いがいるの。 女性は自身の疑いを晴らすためにその知り合いの名前を言った。 「……相島。確かに俺の同僚だ。実家の母親の介護の関係で今仕事には来れてないけどな」 相島さんは僕も知っていた。いがぐり頭で眼鏡をかけた優しそうな男性だ。現在は家庭の都合でこの仕事から離れていた。そのことは岩本さんに少しばかり寂しさを感じさせていた。しかし一方で、僕はそのことを少しばかり嬉しく思っていた。きっと職場にいる多くの女性社員もそう思っているに違いなかった。相島さんは若い女性社員に対してセクハラまがいなことをよくしていたのだ。 あんな男、焼却炉にぶち込んでも誰も悲しまないわ。 二つ年上の間中さんがタバコの煙を吐きながら毎回のようにそう愚痴をこぼしていた。煙が空気中に拡散して見えなくなるように、言葉も至るところに分散して消えてなくなれば、間中さんのその言葉も後輩に向けた気の利いた洒落なのか、それとも本当の嫌味なのか判然としなくなった。 とにかく、相島さんが長期休暇に入ったおかげで一時的な安泰が職場に訪れることになったのだ。 「そんでその女が今すぐに持っていってほしいゴミがあるから来てほしいって言うんだよ。そりゃ最初は断ろうとしたさ。でも、向こうが俺の言うことなんて何も聞かずに住所をつらつら言うもんだから仕方なしにそこへ向かったさ。車を止めた場所から30分もかかる距離だったよ。たどり着くまでは気が重かったさ。ただのいたずら電話だったらどうしようとか、帰ってから所長になんて言い訳しようかとか、ずっと考えてたね」 実際に考えるように岩本さんは顎に手を置いた。 「でもな、そこに着いたら、考えていたことのすべてが無駄だって思えたさ。そこには長髪の肌が真っ白な女性が立っていたんだ。胸も尻も大きさは控えめだったけど、十分な顔立ちだった。ビビッて電流が走るのを感じたさ。これが恋ってやつかって思ったね」 「でも、岩本さんには彼女さんがいるんじゃ……」 「ああ、まあ。——でも、最近はまんねりとしててさ。潮時かなって思ってもいたんだ。よく続いた方だと思うよ。どうだ、お前がリサイクルしてくれるか? 顔はあんまりよくないけど、身体はピカイチだからさ、夜は満足できると思うよ。ハハハ」 僕は愛想笑いをすることしかできなかった。サイドミラーに映ったその音にもならない僕の笑みは、焼却炉の中に燃えて行くゴミの様子を僕に想起させた。こうなってしまったら僕にはもうどうにもできない。そんな思いが胸を満たすばかりだった。 「今夜はその子とディナーの約束があるからさっさと洗車して帰るぞ」 岩本さんがアクセルペダルを強く踏み込み、それに応えるようにしてゴミ収集車が唸り速度を上げた。生命が一度として止まることなく死へと向かい続けていくように、ゴミ収集車も何かの運命に導かれるようにして一度も信号に引っ掛かることなくゴミ処理場へたどり着いた。それから僕たちの仕事は順調に進み、岩本さんが望んでいた通り、定時丁度に退社することができた。 「季節外れのインフルエンザだなんて、岩本さん自身もびっくりだろうね」 あたしも気をつけなくちゃよね、と間中さんが煙を吐いた。 インフルエンザで病欠中の岩本さんと代わって週明けの月曜日から三日間は間中さんとペアで僕はゴミ収集の仕事をしていた。 岩本さんのことは当然気になってはいたが、きっと新しい彼女に看病してもらっているのだろう、と案外すぐに割り切ることができていた。ディナーの翌日に聴いた話からも彼らがいい感じなのはよく伝わってきていたのだ。「手なんかつないじゃってさ、とってもドキドキだったさ」と興奮気味の岩本さんに僕はたじたじだった。木曜日ほど他人の恋愛を聴くのに相応しくない日はないと、そのとき僕は強く思ったさ。 「岩本さんは最近エミちゃんとどうなのかな。全然話聴いてないのよね」 間中さんが灰皿にタバコの灰を落としながら訊いてきた。エミちゃんとは、岩本さんの彼女であり(現在も付き合っているのかは不確かだが)、間中さんの友人でもあった。要するに二人の関係には仲介者として間中さんがいたのだ。僕はすっかりそのことを忘れていた。それと同時にどうやってこの話題を片付けてやればいいのか、非常に困窮した。 「……そうですよね、僕も最近のお二人の関係はさっぱりでして……」 「あら、そうなのね。ここんとこ一緒に仕事してるから惚気とか愚痴とか嫌ってほど聴かされてるのかと思ってたわ」 間中さんは残念そうにしてタバコの吸殻を灰皿に放った。 そこに僕の電話が鳴った。画面には《非通知設定》と表示されていた。それに僕が困惑していると、間中さんが「お! 愛しのハニーからかしら。あたしは気にせず出てあげな」と茶化してきた。僕はすぐに「いま彼女はいません」と否定し、電話に出た。 知らない女性の声だった。 ——君島さんのお電話で間違いないですか? 女性のか細い声は、女は男が守らなくては、といった男の本能をくすぐるのに十分すぎた。 「はい、君島ですけど。どちら様でしょうか」 ——私、康くん、いや、岩本くんの、その、……。とにかく、いま岩本くんと一緒にいるの。わかるよね、岩本くん、岩本康太。 電話口の女性は何か焦っているようでもあった。 「あ、はい。僕の上司です。それで、用件は何ですか?」 ——いまね、康くんがね、インフルエンザになっちゃって、私たち家の外に出れない状況で、ゴミが溜まっちゃってて。康くんにそのこと話したら、あなたに電話をすれば来てくれるって言ったから、いまこうして電話してるの。……いますぐ来てもらえるかしら。 「まあ、今日の仕事は一通り片付いてはいるので、行けないことはないです」 ——よかった。ありがとう。 それから女性は住所を教えてくれた。——それと、絶対にひとりで着てちょうだいね。いろいろと康くんが気にしちゃうから。それが女性の最後に言った言葉だった。 僕はゴミ収集車を走らせながら所長になんて言い訳しようかと、信号で止まる度ため息をついていた。

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