『猿真似』#3 長机を一つ挟んで、正面には無駄に肩幅の広い男が二人椅子に座っていた。きつそうなスーツを身に纏った二人は、僕の姿を見ては顔を合わせて困惑をそこに滲ませ、続けて鼻で笑っていた。 「君は見た目がサルの人間か、あるいは人間の見た目をしたサルか」 「話すのがあまりうまくないところを推測すると、サルかもしらん」 「まあ、どちらにせよ、飛行機の操縦室にサルやサルのような人間を乗せるのは、見た目的にも、ねえ」 「ああ。でも、ソビエトの人工衛星になら乗せてもらえるかもしらんな」 「ほう、かもしれないね。ところで、それに乗った犬はどうなったんだろう」 「さあね。その真相は私にもわからん。宇宙には到達したそうだが、……そうだ! 彼にスパイとして調査してきてもらえばいいじゃないか。そうすれば、アメリカさんだって大喜びで、うちのパイロット学校も儲かるかもしらんよ」 「それもそうだね。ねえ、君、空を飛べればなんだっていいだろう? 飛行機の操縦士も宇宙飛行士も相違ないさ。どうかな、君がうんと頷けば、僕たちが話をつけてあげても構わないよ。実際、社会主義の方が距離的には近いんだからね。打つ手は山ほどあるさ」 「ハハハ、そうさ。ちょっとやそっとじゃ遠い海の向こうにはばれやしないだろうよ。ただ、ばれたあかつきにはもう一つ爆弾を落とされるかもしらんな。あれから10年以上経ってるんだ、もしそうなったら、今度こそ日本には櫻は咲かなくなるだろうよ」 「まあ、その気になったら、ここの番号に連絡するといい。きっといつでもすぐに空を飛べる」 「それが片道切符にならないといいけどね」 後から知ったが、彼らは元空軍兵士であり、敗戦をその身に痛感した者たちの一員だった。そのためアメリカに対して未だに敵対意識を抱いたのか、アメリカへ向けた過剰なこびへつらいは今後謀反を起こすそれと同じようにも聴こえた。 もちろんパイロット学校の面接試験は不合格で、僕の手元には怪しい会社の名前が印字された名詞が残った。 高校の教師にその面接試験のことを話したら、教師は面接官の彼らが向けた視線と同じ視線を僕に向けてきた。教師は僕の言葉を真面目に受け止めようとはせず、常に半笑いだった。君は本気で操縦士になれると思っていたのかい? 君はサルが運転する飛行機に乗りたいと思うのかい? そう問いかけてくるような顔の色だった。そして、彼は形だけでも教師としての職務を全うするためにこう提案してきた。 「君のような得体のしれない生き物は、そう簡単に人間社会に馴染めっこないんだ。だからね、周りのみんなが選ぶような大学進学や企業への就職は諦めた方がいい。もちろん操縦士もさ。僕が思うに、君はサーカス団に入るか、山奥の温泉で三助をするか、按摩になるか、そのどれかがいいと思うんだ。もし、君がサーカス団に入りたいというなら、いいつてがいるんだよ。どうかな?」 僕は辟易した。彼らはどうしてこうも自慢そうにものを言えるのだろうか、と妙な気分にもなった。そして、彼らはどうしてこうも自分のことばかり気にして、他者を駒のように打ちやることができるのだろうか、と苛立ちさえ覚えた。それはナイフのように鋭利で、光にかざせばギラギラと輝いた。軽いひと振りで、何でも二つに切り分けるほどの切れ味を保有していることは一目瞭然だった。僕は躊躇うことなくそれを彼らに向けることができた。それから数秒堪えてやれば、なぜだかその殺意は自分に向けられていた。このナイフで彼らの首ではなく自身の首を切って死にたいと思った。それならたった一回ですべてが済むのだ。しかし、死ねなかった。素直に恐かった。 死ぬ前に、せめて人間らしい姿を日に浴びせてやりたいと思ったが、剃刀は長い毛が絡まりどれもすぐにダメになった。余計死にたくなった。このときには一度死にたいと思ったときより恐怖は薄れていた。このようにして死への恐怖は和らいでいくのだろうか、と僕は何度も身体に剃刀を当てた。ただ、死を決意するまでには剃刀の数が足りなかった。 その夜、僕は震える手で、校舎の外側の壁に設置された緊急用の電話機のボタンを一つひとつ丁寧に押していった。ボタンを押していない方の手には、面接官から渡された名詞があった。死ぬくらいなら、人工衛星でもなんでもいいから最後に空を飛んでやろう、と躍起になっていた。 受話器の奥で5コール鳴って、相手が出た。女の声だった。男の心を下からゆっくりと愛撫するような柔らかな声色だった。そして、彼女はこれからなら空いているから、とホテルの住所と集合時間を二回繰り返した。そこで僕は電話の相手が風俗嬢だと気づいた。この名刺は、面接官が愛用していた風俗嬢のものだったのだ。 「ち、違うんです。これは間違い電話なんです」 僕の声は明らかに震えていた。それを聞きとった女性は、男のプライドに傷一つつけないような、プロフェッショナルなやり口で僕のことを慰めてくれた。「違くないと思うわ。きっとあなたは私を求めているの。そんなの恥ずかしいことじゃないし、そこまで怯えなくていいのよ。一度経験してみれば、なんてことないのよ。空を飛んだことない鳥だって、一度その羽根を羽ばたかせれば翌日にはきっとその羽根で平然と空を飛び回っているわ」。その言葉は、確かに僕のプライドに傷をつけることはなかったが、僕のプライドに火を点けるのに十分すぎた。そこまで言われて引き下がることはできないのだ。 通話が終わり受話器を元の場所に戻すと、僕は服についた土汚れを手で何度もはたいた。月明かりに照らされた校舎の窓を鏡代わりにして髪型を整えたり、絡まった砂を取り除いた。淡い青色の月光は、僕の顔まで青に染めた。ピカソの青の時代を想わせる哀愁が、そこにはあった。 この夜、僕は初めて女を買った。 待ち合わせ場所に女はいた。僕は心のどこかで、そこに彼女がいなければいいのにな、と思うと同時にそこに彼女がいなかったら僕はどれほど決まり悪いだろうか、とも思っていた。だから、ホテルの304号室の扉をノックして反応があったときには、驚きのあまり僕は本物のサルのような声をこぼしてしまった。 それに対してその女は何も変わった様子を見せることはなかった。僕の姿を見ても何も言わなかったし、僕の容姿について何一つ触れなかった。唯一触れたのは、僕の陰茎の大きさのことだけであり、それもまた男のプライドを守り、火を点けるような言い回しだった。 まさに相手は自分の仕事を全うしているようだった。僕の性行為がどんなに下手糞であろうと、プロフェッショナルとしての声掛けを忘れなかった。喘ぎ声も一丁前で、一つになった二人には広すぎる閑散とした一室にその声は嫌なほど響いた。耳の傍を何度も通り過ぎていく蚊の羽音のように、僕はその声のせいで目の前のことに一切集中することができなかった。そして、最終的に僕は射精できずにその部屋を後にすることになった。 「鳥だって初めから上手に飛べるわけじゃないのよ。羽根を持っていようと、それを使いこなすまでになかなかに苦労することだってあるの」 別れ際に女が僕に向かってそう言った。僕の目を見てそう言った。そして、また来てちょうだい、と新たに名刺をくれた。僕はそれを受け取ると、逃げるようにしてその場を後にした。目尻に溢れた涙をどのタイミングで拭おうか、とホテルのエレベーターまで速足で歩いていった。 どうしてだろうか、僕は相手にサルとして見られたくないはずなのに、そう見られることにうんざりしているはずなのに、実際相手にそう見られないとなると強烈な違和感を覚えた。女にとって自分が取るに足らない男のように思えて虚しくなった。自身のことをなおざりにされているような気がして無性に腹が立った。妙な話だが、いつしか僕は深層心理の中で自分が相手にサルとして見られないことに不満を抱くようになっていたのだ。 そういった感情を抱いていることに僕はその夜、夜空に浮かぶおとめ座の上を滑空する飛行機の点滅を眺めながら気づいた。そうすると、なぜだか夜空に浮かぶ星々がいつもより遠く、よそよそしく見えた。薄く幕を被ったようにおぼろげとして輝いていた。飛行機の点滅も徐々にその光を小さくし、視界の隅でぽうっと閃いたかと思うと次の瞬間には姿を消した。それはまるで水辺の蛍の最期のようであり、何かの暗示のように僕の脳裏に鮮明に焼きついた。そして、僕はその暗示を無意識のうちに読み取り、受け入れようとしていたに違いない。だからこそ僕はこのときその感情に折り合いをつけるべく、サーカス団に入ることを決心したのだ。案外すんなりと決心できたことに自分でも驚き、吐く息が白いのにも関わらず身体が少しも寒くないのはこの体毛のおかげなんだ、と自身の異常な体質に感謝の念を抱きつつあった。 しかし、僕の頬には絶えず涙が流れ続けていた。涙は毛の上を伝い、するりするりと顎の方まで落ちていった。あみだくじの要領で、時折それは鼻先や耳の方に流れて行った。口先にやってきたときには、僕はそれを舌先で舐めた。涙は高揚感と自身に対する惨めさとを混ぜ合わせたようなしょっぱい味がした。
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『猿真似』#2 一つ目の戦争は25年前、海の向こう、広い大陸の山々を越えた遠い場所で起こったらしい。まだ幼かった僕は人づてにそう聞いた。25年という時間が、何日と何時間と何分で構成されているのかも知らない時分のことだった。そして、二つ目の戦争は海の向こう、広い大陸の山々を越えた遠い場所から遥々こちらにやってきてくれた。別に僕はそれを見たいとは頼んでいなかったが、それは有無も言わさず次々とやってきた。これが25年という時間なのか、と支離滅裂な思いに駆られ子供ながらに感動した記憶がある。 それから二つ目の戦争が終わり、しばらく経った頃、僕は静岡の山奥の村にいた。疎開というやつで訪れることとなったその村に、結局住むことになったのだ。離れ離れになった両親とも合わずじまいだった。おそらく彼らは灰となって、平和を象徴する快い夜明けの風に吹かれていたに違いなかった。向かい風の中に立った時、ふと何気なく後ろを振り返ってしまうのは、その風の中に灰となった彼らがいるかもしれないと潜在的に感じているからなのだろう。 両親を失っていた僕はしばらくの間帰る家がなかった。だから疎開先の村の小学校の校庭の木の上で、燦然とする星々を見上げながら多くの夜を過ごしていた。冷える冬場は焼却炉の傍で、そこに残ったぬくもりを優しく抱きしめて寝ていた。 その学校に通う子供たちはみんな僕のことをサルと呼んだ。教師や生徒の親も平気で僕をサルと呼んだ。村にやってきてから木の上で寝起きしているから、ということもあったが、何より僕の見た目がサルそのものだったのだ。僕は一般的な人と比べて異常なほどに毛深かった。顔面にも、腕にも、胸にも、腹にも下半身にも髪の毛並みの毛が生えていた。物心ついた頃からそうだった僕にとってはそのことはあまり気にすることではなかったが、それを目にする周囲の人々はその異様さにひどく敏感だった。 「まさか、お前のパパは女が捕まえられなくて、血迷った結果メスザルと交尾をしたのかい?」 「いいや、グラマーなママが夜中に森を一人で歩いていて、その際にオスザルに侵されたんだろうよ」 「もしかしたら、パパもママもサルで、彼はその間に突然変異として生まれたのかもしれん。そうだとしたら、ダーウィンという学者が言っていた説が証明される良い証拠になるだろう。半年もすれば国の研究機関で、囚人よりもひどい仕打ちを受けることだろうよ」 誰の声にも僕を不憫に思うような気遣いがありながらも、口の端には常に嘲笑の色が浮かんでいた。そして、力の抜けた両肩の高さは目の前に見ているサルのような人間が自分自身、あるいは自身の子供でなくてよかったと安堵しているようでもあった。 それでも僕はなんとか学校に通っていた。木の上や焼却炉の横よりかは学校の方が何かと安全だったのだ。屋根があれば、トイレもあったし、ご飯だってそれなりに食べることができた(ほとんどをクラスメイトの手によって屑籠に放られていたが)。そして、何よりも図書室が僕にとっての家だった。 僕という存在と同じように、図書室には多くの子供が寄り付かず一定の距離を置いていた。しかし、少数の読書好きの拒食症気味の女子や博識ぶった坊ちゃんは僕に構わず図書室にやってきた。当然その中にも好んで僕に話しかけてくる者は一人としていなかった。誰しもが、胡坐をかき本棚を背凭れにして本を読む僕を石ころのように扱った。蹴っ飛ばしたり、踏んづけたり、本の角で叩いたりしてきた。ただ、そんなことをする彼らも僕と同じようにクラスで浮いているような奴らであることには変わりなかった。なぜだか、その中でも僕だけが周りからひどい扱いを受けていた。少年として不相応な読書好きな彼らは、一度としてクラスメイトが勝手に家から持ち出した父親の猟銃で殺されかけたことはなかったはずだ。僕はただ毛深いという理由だけで、その銃口を知らず知らずのうちに向けられ、その銃声に肝を冷やしていたのだ。 ときには首輪をはめられ猿回しのようなものをみんなの前でさせられたし、それぞれが家から持ち寄ったバナナを一斉に投げつけられたことだってあった。要するに、彼らにとって僕という存在は恰好の遊び道具だったというわけだ。 それでも僕がしつこく学校に通い続けていたのは、そこが外より安全だからということに加えて、図書室で見つけた飛行機のパイロットに関する本に感銘を受けていたためだった。それを読んでから、僕はパイロットになりたいと本気で思うようになっていた。だからこそ必死に勉強しようと思い、自身に降り注がれるひどい仕打ちのことなんて一切頭の中に入らないくらい努力していたのだ。 しかし、社会さえも僕をサル扱いしてきた。
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『猿真似』#1 箱から一本のタバコをつまみ口に咥え、少ししゃくれてやってタバコの先を持ち上げる。いつしか如何なる時も震えるようになった腕は、ライターさえも見た目以上の質量を見る者に思わせていたに違いない。顔前に持ってきたライターの位置を調整するのに手間取っているうちに、焦点は窓の外の夜空に合わせられる。際限のない暗闇の中に放り投げられたなら誰しもがそうするように、誰に命令されるでもなく、目は無意識に星の輝きに向けられる。星と星を線で結び始める。オリオン座、ふたご座、おおいぬ座と、大方の検討をつけていく。たとえどの星とどの星を結んでやればいいのかわからなくなったとしても、夜空にはその代わりとなる星々が至るところに瞬いている。だからやろうと思えば、オリオンの横にサソリを置くことだってできたし、双子を三つ子、四つ子、五つ子、……と量産できた。 僕はその夜空に友人として仲良くしていたシャム双生児のシルエットを描いた。彼ら——一つの個体だったとしても、彼らには二人分の名前があったし、二人分の価値観や意志があった。正面から見て、右がウタロウ(右太郎)、左がサタロウ(左太郎)。しかし、彼らから見て左が右太郎になり右が左太郎になるため、どちらかが名前を呼ばれる度、彼らは困惑した表情で共に返事をしていた。——は、アジの開きのように綺麗なほどに左右対称で、互いに気分が良い時は肩を組んで歩いていたりした。僕はその瞬間の彼らを夜空に描いたのだ。傍から見れば、ただの仲の良い双子のように見えていたのだろう。しかし、彼らは確かに腰の辺りで一つに繋がっていた。ふたご座が、二人の人間を表現するために別々の星を線で繋いだ二つの星座でないように。 当然、僕は彼らのことを思い出して懐かしい心持になっていた。遠く昔の人々もこんな風にして夜を過ごしていたのだろうか、とそこに遍いていたに違いない重厚な静寂さと純粋な平和を羨ましくも思った。太陽が沈み、光を失った人類は皆こぞって野原に寝転び、夜空の星々に指をさして自分の物語をそこに並べていっていたのだろう。 実に平穏で、実に安らかなる世界。 僕はそんな世界を望むと同時に、そんな世界の夜空に並べられた物語に対して疑問を抱いていた。 そんな世界で語られる物語のどこに人の心を打つ場面があるのだろうか。森の木々の青さを眺め、山から下りてくる風の匂いに川の清涼さを強く感じる季節の頃、立ち寄った茶屋のおばさんと……、とどこにでもありそうな世間話を文句も言わず聞くことができるのは、昼間の辺りの喧騒が時として逃げ場となるからなのだ。夜の逃げ場のない静けさの中で語られる独りよがりな私小説ほど聞き苦しいものはない。そして、その内容が平和であればあるほど、僕たちは身体の芯から揺れ出す眠気に敏感になる。 何も平和が悪いとは言っていない。ただおそらく、平和は全人類が等しく追い求めるものでありながら、全人類が等しく退屈だと感じでいるものなのだ。この二千年の間に語られた物語のその多くが奪われた平和を取り戻す類いのものであり、作家は一つの作品の主人公が平和を手に入れ物語の結末を迎えれば、別のところから平和を奪い混乱を創造し、物語を描き始めた。そして、それは決して二次元の中でのことに限ったものではなく、三次元(現実)においても容易に確認できる。一つの争いで国が荒れ果て平和が訪れれば、また別の場所で鉄砲が叫び、爆弾が落とされいくつもの国が火の海となってきた。その出来事が形を変え、色を変え、多くの人々によって語り継がれてきた。それは人の心を打ち、ときに新たな争いを助長した。歴史の教科書に平和を映したページがないのも、人類の二律背反とした性質がゆえなのだろう。 奇しくも人類はこのようにして、平和を願いながらもそれをすぐに蔑ろにする自分たちの矛盾に満ちた性質を無意識のうちに体現しているのだ。 僕も人類の一員としてその性質を細胞の中の、核の中の遺伝子の中にしっかりと刻み込んでいる。だからこそ、これから語ることはシャム双生児との平穏な休日のことではなく、それなりに奪われた平和をそれなりに取り戻す話だ。 そして、話を始める前には、話を始めるために必要なことがある。火を点けることだ。そう、始まりはいつも一つの火からだ。小さな火から。その小さな火で大砲は唸り声を上げ、爆弾は大地を崩し、大樹が倒れるようにして平和はその姿を失くす。数ある物語はいつもそこから語られる。 口の中に溜まった唾液がタバコを湿らせたために、その先が視線の隅にどんどんと姿を消して行っていた。僕はそれを下唇で無理やり視界の中央に持ってこさせ、ライターで火を点けた。『踊り子』という銘柄のタバコは、タバコの先で揺れる煙が踊り子のように優雅に見えたことから名づけられたらしい。これも昔、とある女性から聞いたことだった。鼻先で揺れる煙はまさに踊り子の嫋やかな舞のようであり、僕はその舞を近くで見るために気づけば、タバコを吸う時には一切手を使わなくなっていた。灰が腿に落ちて、ジーンズに穴を開けても何も気にしなかった。特等席で見る踊り子の舞は、毎晩僕に良い夢を見させてくれるからだ。それは形容できないほどに素晴らしい夢なのだ。そして、それはここで語るべきものではなく、唾棄すべきものの類いに含まれるに違いないため、そのことについて触れるのは控えさせていただこう。 まあとりあえず、火が点いた。僕は大砲でなければ爆弾でもないから、人間として語ることにする。僕の物語を——
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『ゴミ収集』 担当の地区へ岩本さんの運転で向かっている最中、おなじみの曲がスピーカーから流れ出し車内を満たし始めた。その曲はゆったりとしたテンポで、歌う女の声は妙に甘ったるい。歌詞だって、疲弊しきった自身の心が惨たらしいほどの黒いシルエットとして地面に伸びる水曜の朝には到底似つかわない。その曲は夜光虫が揺れる夜の海辺、心許なく光る一つの外灯に照れされた公園のベンチ、室外機がしんみりと黙り込んだ星月夜のベランダ、そういったところで聴くのが好ましいもののように僕には感じられていた。 その曲のAメロとBメロの間で、岩本さんが鼻から大きく息を吸い口から吐いた。ぐうっと肩が下がり、首が下がった。その情けない様相は、僕に一つの予感をはっきりと感じさせた。 予感をはっきりと感じるという表現に我ながら違和感を覚えないわけではない。ただ、こう表現するより他がないのも事実だった。言ってしまえばこれは、移り変わる季節に対する予感となんら変わりないのだ。今年も夏はやってくるとわかっている中で、僕たちは晩春の風の中に夏の予感を確かに感じ、高揚する。夏はもうすぐそこまで来ていると確信する。 このときの僕だってそれと同じような状態だった。僕だって確信していた、となりに座る岩本さんが恋をしつつあるということを。 「岩本さん、何かあったんですか?」 こうなると、そう訊くのが後輩としての僕の役目でもあった。 岩本さんはまた息を吸って吐き、少し躊躇うような間をつくってから口を開いた。 「……恋ってのはさ、なんかさ、ゴミ収集と似てるんだよな」 変わったばかりの赤信号を見つめるその表情は儚げだった。小さな舟で大海原に放り出された青年が、どうすることもできずにただひたすらに夕日を眺めているといった構図だった。右も左も、前も後ろも水平線。空に浮かぶ夕日の裏の、これまでの思い出の日々を振り返ることしかできずにいる青年。きっと岩本さんも、あの赤信号の裏の過去を思い返しているに違いなかった。 「最後まで大切に使われ続ければいいんだけど。結局は捨てるか、捨てられるかなんだよな」 掠れた声は感傷的で、どことなく偽善的な響きを含んでいた。岩本さんの心の奥底にある本心を隠すように、エンジン音が唸りを上げ、ゴミ収集車は走り出した。 気づけば、信号は青に変わっていた。 「でもさ、誰かにとってのゴミでも、また別の誰かにとっては利用価値のあるものだったりするんだよな。本当のゴミか、リサイクルできるのか、そこをもっとうまく判別できるようになれば、この世の中はもっとクリーンなものになるのかもしれないな」 山のように積まれたゴミ袋をゴミ収集車に放り込みながら岩本さんが言った。最後に諦観した微笑みを見せたがために、その言葉は一瞬にして冗談とも本音ともとれない曖昧なものとなった。そして僕は、このような人間が増えているからゴミかそうでないかを判別するのが難しいものとなっているのではないのだろうか、とふと思った。 「先週のこの時間、電話が鳴ったんだ。しかも、知らない番号から」 担当の地区のゴミ収集を終え、ゴミ処理場へ向かっている最中に岩本さんが話し始めた。もちろんそれは恋の顛末と関係するものであり、起承転結でいうところの起の部分だった。 車を路肩に止め、電話に出ると、電話口には女性が出た。風が吹けばどこかに飛んで行ってしまいそうなか弱い声に、岩本さんは自身の脳細胞を総動員させたが、記憶の中にその声の持ち主はいなかった。昔から素行の悪さを注意されることはあったそうだが、記憶がなくなるまでお酒を飲んだことは一度としてないらしい。ではどうして自分の電話番号をその女性が知っているのか、疑問を抱いた。 ——あなたの同僚さんに私の知り合いがいるの。 女性は自身の疑いを晴らすためにその知り合いの名前を言った。 「……相島。確かに俺の同僚だ。実家の母親の介護の関係で今仕事には来れてないけどな」 相島さんは僕も知っていた。いがぐり頭で眼鏡をかけた優しそうな男性だ。現在は家庭の都合でこの仕事から離れていた。そのことは岩本さんに少しばかり寂しさを感じさせていた。しかし一方で、僕はそのことを少しばかり嬉しく思っていた。きっと職場にいる多くの女性社員もそう思っているに違いなかった。相島さんは若い女性社員に対してセクハラまがいなことをよくしていたのだ。 あんな男、焼却炉にぶち込んでも誰も悲しまないわ。 二つ年上の間中さんがタバコの煙を吐きながら毎回のようにそう愚痴をこぼしていた。煙が空気中に拡散して見えなくなるように、言葉も至るところに分散して消えてなくなれば、間中さんのその言葉も後輩に向けた気の利いた洒落なのか、それとも本当の嫌味なのか判然としなくなった。 とにかく、相島さんが長期休暇に入ったおかげで一時的な安泰が職場に訪れることになったのだ。 「そんでその女が今すぐに持っていってほしいゴミがあるから来てほしいって言うんだよ。そりゃ最初は断ろうとしたさ。でも、向こうが俺の言うことなんて何も聞かずに住所をつらつら言うもんだから仕方なしにそこへ向かったさ。車を止めた場所から30分もかかる距離だったよ。たどり着くまでは気が重かったさ。ただのいたずら電話だったらどうしようとか、帰ってから所長になんて言い訳しようかとか、ずっと考えてたね」 実際に考えるように岩本さんは顎に手を置いた。 「でもな、そこに着いたら、考えていたことのすべてが無駄だって思えたさ。そこには長髪の肌が真っ白な女性が立っていたんだ。胸も尻も大きさは控えめだったけど、十分な顔立ちだった。ビビッて電流が走るのを感じたさ。これが恋ってやつかって思ったね」 「でも、岩本さんには彼女さんがいるんじゃ……」 「ああ、まあ。——でも、最近はまんねりとしててさ。潮時かなって思ってもいたんだ。よく続いた方だと思うよ。どうだ、お前がリサイクルしてくれるか? 顔はあんまりよくないけど、身体はピカイチだからさ、夜は満足できると思うよ。ハハハ」 僕は愛想笑いをすることしかできなかった。サイドミラーに映ったその音にもならない僕の笑みは、焼却炉の中に燃えて行くゴミの様子を僕に想起させた。こうなってしまったら僕にはもうどうにもできない。そんな思いが胸を満たすばかりだった。 「今夜はその子とディナーの約束があるからさっさと洗車して帰るぞ」 岩本さんがアクセルペダルを強く踏み込み、それに応えるようにしてゴミ収集車が唸り速度を上げた。生命が一度として止まることなく死へと向かい続けていくように、ゴミ収集車も何かの運命に導かれるようにして一度も信号に引っ掛かることなくゴミ処理場へたどり着いた。それから僕たちの仕事は順調に進み、岩本さんが望んでいた通り、定時丁度に退社することができた。 「季節外れのインフルエンザだなんて、岩本さん自身もびっくりだろうね」 あたしも気をつけなくちゃよね、と間中さんが煙を吐いた。 インフルエンザで病欠中の岩本さんと代わって週明けの月曜日から三日間は間中さんとペアで僕はゴミ収集の仕事をしていた。 岩本さんのことは当然気になってはいたが、きっと新しい彼女に看病してもらっているのだろう、と案外すぐに割り切ることができていた。ディナーの翌日に聴いた話からも彼らがいい感じなのはよく伝わってきていたのだ。「手なんかつないじゃってさ、とってもドキドキだったさ」と興奮気味の岩本さんに僕はたじたじだった。木曜日ほど他人の恋愛を聴くのに相応しくない日はないと、そのとき僕は強く思ったさ。 「岩本さんは最近エミちゃんとどうなのかな。全然話聴いてないのよね」 間中さんが灰皿にタバコの灰を落としながら訊いてきた。エミちゃんとは、岩本さんの彼女であり(現在も付き合っているのかは不確かだが)、間中さんの友人でもあった。要するに二人の関係には仲介者として間中さんがいたのだ。僕はすっかりそのことを忘れていた。それと同時にどうやってこの話題を片付けてやればいいのか、非常に困窮した。 「……そうですよね、僕も最近のお二人の関係はさっぱりでして……」 「あら、そうなのね。ここんとこ一緒に仕事してるから惚気とか愚痴とか嫌ってほど聴かされてるのかと思ってたわ」 間中さんは残念そうにしてタバコの吸殻を灰皿に放った。 そこに僕の電話が鳴った。画面には《非通知設定》と表示されていた。それに僕が困惑していると、間中さんが「お! 愛しのハニーからかしら。あたしは気にせず出てあげな」と茶化してきた。僕はすぐに「いま彼女はいません」と否定し、電話に出た。 知らない女性の声だった。 ——君島さんのお電話で間違いないですか? 女性のか細い声は、女は男が守らなくては、といった男の本能をくすぐるのに十分すぎた。 「はい、君島ですけど。どちら様でしょうか」 ——私、康くん、いや、岩本くんの、その、……。とにかく、いま岩本くんと一緒にいるの。わかるよね、岩本くん、岩本康太。 電話口の女性は何か焦っているようでもあった。 「あ、はい。僕の上司です。それで、用件は何ですか?」 ——いまね、康くんがね、インフルエンザになっちゃって、私たち家の外に出れない状況で、ゴミが溜まっちゃってて。康くんにそのこと話したら、あなたに電話をすれば来てくれるって言ったから、いまこうして電話してるの。……いますぐ来てもらえるかしら。 「まあ、今日の仕事は一通り片付いてはいるので、行けないことはないです」 ——よかった。ありがとう。 それから女性は住所を教えてくれた。——それと、絶対にひとりで着てちょうだいね。いろいろと康くんが気にしちゃうから。それが女性の最後に言った言葉だった。 僕はゴミ収集車を走らせながら所長になんて言い訳しようかと、信号で止まる度ため息をついていた。
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#第35回どうぞ落選供養 タイトル : 自由研究サークル活動報告(2023/08/16) ——というわけなんだけど、君ならどうするかな? 右耳に押し付けたスマートフォンはじわじわと熱を帯び始めていた。それが時間の経過を僕に克明に感じさせていた。僕の泳ぐ視線は、五秒に一回のペースで正面に立つ一人の女性に向けられていた。そして、彼女と目が合う度に僕は愛想笑いを見せて小さく頭を下げた。僕もそうだが、彼女の方も居心地が悪そうだった。もじもじとスカートの裾を握っていた。 やっぱり、俺なら断らないね ちょっと待ってくれ、その状況を想像させてくれ、と長考の末に電話越しの友人はそう答えた。ようやくそれを聞けた僕は彼にひとこと礼を告げ、電話を切った。ポケットに入れたスマートフォンの熱はすぐには冷めず、それがなぜだか正面に立つ女性の体温のようにも思えて僕は余計気おくれした。 「誘ってくれてありがとう。ぜひ行く。お邪魔させてもらうよ。君のうちに」 その言葉を耳にして女性は顔に集中させていた緊張を一気に緩ませた。冷凍状態からだんだんと解凍されていくように、彼女の表情ははっきりと安堵という感情を示していた。僕の方に一度目を向けすぐに逸らし、また目を向けてきた。口の端や眉がぴくりと上を向いた。 そんな風に嬉しそうであったのにもかかわらず、女性は少しすると再び俯き「でも、本当にいいんですか? 電話のお相手に迷惑じゃないですか?」と不安そうだった。 僕は首を振った。さっきのはただの友達だから、と相手を安心させようとそう口にしたとき、僕の心中にクエスチョンマークが浮かんだ。いいや、友達じゃないかもしれない。今、このとき、この一週間において、彼は僕の友達ではない。彼は僕なんだ。もっと正確に言えば、彼は僕になりつつあり、僕も彼になりつつあるんだ。 「ねえ、何の映画借りる?」 立ち寄ったレンタルショップにて女性にそう訊ねられたとき、僕はまた断りを入れて友人に電話した。 言っておくが、別に僕は優柔不断な人間ではない。マッチングアプリで知り合い、デートした女性に家に来ないかと誘われたからって気が動転して友人に判断を仰ぐなんて馬鹿げた真似はしない。 これはれっきとした実験だ。ルイと僕との共同実験なんだ。ただ論文にはならないだけで、この実験結果が興味深いものになるのには変わりないと思っている。 ××大学 自由研究サークル(非公認) 第13回の実験テーマは、簡潔に言えば、《選択の個人形成への影響力》についてだった。そして、五日前からルイと僕は比較的明確な選択が与えられた際に(人生は選択の連続であり、細かいものまで研究対象に入れていたら僕たち素人には手に負えない)、互いの判断を相手に任せて一週間生活するようにしていた。 夏休みという有り余った時間の中でルイは恋を求め、マッチングアプリを始めるという選択をし、それを僕が担うことになった。一方で僕はRPGゲームの完全攻略を求め、ドラゴンクエストシリーズのプレイを選択し、それを彼が担うことになった。多くの場合において僕は女性への接し方について彼に連絡し、彼はゲームキャラの操作や行動について僕に連絡してきた。 そのようにして自身の選択を別の誰かにゆだねることで自身が段階的に自身でなくなり、その別の誰かに変化していくことができるのではないか、と僕たちは考えていたのだ。要するに、そのようにして僕が彼として、彼が僕として、この先の人生を歩むことができるのであれば、選択というものがいかに個人形成に重要なものなのか、証明できるのだ。 しかし、この実験には穴があった。小さいながらもそれは至るところにあり、それらは時間の経過とともに少しずつ大きくなっていった。そして、目の粗い網から次々と魚が漏れていくように僕たちの実験は破綻し始めていくことになった。 「そんなことで連絡するなよ。家に上がったんだ、そりゃ一緒のベッドで寝るに決まってるだろ! ——待て、まさかお前、別々で風呂に入ったのか? 俺に確認もせずに勝手に」 「それわざわざ訊くことじゃないよ。パーティ編成を敵モンスターの弱点に合わせればいいだけ! ——もしかしてルイ、その手前の森でボスに対して有効な魔法を憶える仲間を手放したのか? 僕に連絡もしないで」 これに似たやりとりはこれまでに何度かあった。初めのうちは互いに許容し合うことができていたが、実験が終盤に近づく中で、慎重に選択するべきだと考えているポイントがそれぞれで違っており、それが原因で大きなずれを産んでいることが明確になっていった。 どこで選択するかという判断も一つの選択だったのだ。その気づきは僕に、僕という個人を僕の中から外へ出させることのない窮屈な箱の存在を強くイメージさせた。 結局、僕は僕なんだ。僕は僕にしかなりえないんだ。 そんな思いを抱いた僕はマッチングアプリで出会った女性と電気を消した薄暗い部屋のベッドの上で仰向けになりながら、果てしない徒労感とともに漫然と無表情な天井を眺めていた。