齋藤想さん 拝読いたしました。 私が、齋藤想さんの作についてコメントするのは、あまりに恐れ多いのですが、「お酒にこんなにも詳しいんだ。しかも、いろいろちゃんと調べて書いておられる。最後は、何か、じーんと来ました」とだけ書かせていただきます。では、後攻、私の作を恥ずかしながら。 さばえ文学賞・落選作 【陽のあたる道・桜坂あきら】 ビジネスホテルの壁際に出来た桜花の吹き溜まりを横目に見ながら車を出すと、村瀬はいつもとは逆方向へ向かった。平日だが今日は休むと決めていた。 福井市から南へ走るとすぐに鯖江の街がある。少し前から眼鏡が合わなくなっていたので福井にいる間に鯖江で誂えるつもりであった。鯖江製の眼鏡フレームは、職人技の代物でとても品質がいいと聞いていた。 国道沿いの店に入ると、店内には驚くほどの種類のフレームが並んでいた。あれこれ見た後、村瀬は気に入ったひとつを手にした。軽くて丈夫なチタンフレーム。凝ったデザインに深みのある紺色が美しい。入店時の挨拶以外黙っていた男性店員が、絶妙なタイミングで声を掛けてきた。レンズは紫外線カットの機能がある軽いものを選んだ。三日後には仕上がると店員が言った。 村瀬は、支払いを現金で済ませると、受け取りは少し先になるかもしれないと言いおいて眼鏡店を出た。 村瀬が福井にいるのは稼業のためであった。なにも好き好んで始めた稼業ではない。 地元大阪の高校を出て、最初の仕事は運送会社の倉庫作業だった。割に合わない安い給料と大人たちのだらしない仕事ぶりに嫌気がさし、半年で辞めた。それからいくつかのバイトをして、二十歳の時、縁あって喫茶店で働き始めた。 高齢のオーナーが健康に不安を抱え喫茶店を閉めようとしていた。土地建物はオーナーのもので、店を潰し更地にしようと思っていたが、常連客の顔を見るとなかなか決心がつかないでいた。そんな時、店の常連だった村瀬に定職がないことを知ったオーナーが、後を継がないかと声を掛けてくれた。店の備品一式は全部くれると言った。オーナーへの払いは一切いらない、ただ常連客の居場所を残してくれればいいと言った。 村瀬は自分を見込んでくれたことへの感謝の気持ちで、真剣に仕事に打ち込んだ。元々珈琲好きであったし、研究熱心な性分でもあったから、豆の知識に加え焙煎の技術を研究し、水にもこだわり、サイフォンで丁寧に入れるスタイルで少しずつ客を増やした。 小さな店であったから大した儲けはなかったが、仕事は楽しく心は満たされていた。 店を任されて十二年。これぞ天職だと思っていた村瀬を、不運が襲った。 冬の夜、二軒隣の中華店から出た火が村瀬の店を焼き尽くした。乾燥した空気と折からの強風で付近の店舗や民家、八棟が全焼した。その頃、すでにオーナーは病床にあり事態を理解することはなかった。資産は一人息子が管理していた。火災保険はあったが、とても店の再建が出来るほどでもなく、そもそも息子にはその気もなかった。 村瀬は一瞬にして天職をなくした。なんとか気力を奮い起こして仕事を探したが、高卒で長く喫茶店の仕事しかやってこなかった村瀬を雇ってくれる会社はなかった。出来れば今までと同じような喫茶店の仕事がしたかった。 小さな店を望んだが、そんな募集はなかった。やむなく大手喫茶チェーン店でアルバイトを始めたが、レジ横のカウンター越しに珈琲を提供するだけの仕事にはどうしても馴染めず、数か月でその店も辞めてしまった。 同棲していた女とも別れ、仕事もせず、わずかばかりの貯えが徐々に減っていくのを、村瀬はただぼんやりと見ていた。 じり貧の中、目先の金を稼ぐ手っ取り早い方法はパチンコしか思いつかなかった。村瀬は若いころからパチンコが得意で、プロをも凌ぐ力量があった。 最初の月、いきなり五十万の利益を得た。一年目、四百万ほどの儲けを出した村瀬は、暮らしを切り詰め二百万近くの貯蓄をした。二千万貯めることを目標にした。それだけあれば店が持てると思った。パチプロなど日陰稼業と承知の上であった。 夢のために稼ぐ、思いはただそれだけだった。そんな稼業が九年目に入った時、とんでもない機種が村瀬の前に現れた。 村瀬はこの一年、魁龍という機種を専門に狙っていた。 一般的なデジタル抽選の機種ではない。魁龍は、役物と言われる部分に飛び込んだ球が、物理的ないくつかの障害をクリアし、最終的に最下段の当たり穴に入れば一気に大量の出玉が出る。アナログゆえの興奮が人気の機種ではあったが、素人にはハイリスクな博打台でもあった。しかし、釘を見る能力と繊細な技術を持ち、台のクセを把握することに長けたプロから見れば、大きく稼げる機種でもあった。 大阪と兵庫は、瞬く間に荒らされた。地方ならまだ稼げると判断した村瀬は、初めて遠征に出た。福岡から始めて、広島、岡山と移動した。広島には長く居た。大きく稼いだが、目立ち過ぎて身の危険を感じやむなく切り上げた。京都から福井に来て三週間。 十年がかりの目標二千万はほぼ達成した。村瀬は金沢あたりでこの旅を終えるつもりであった。 鯖江から福井市内に戻った村瀬は、クリーニング店でシャツを三枚受け取り、ホテルに帰った。しばらくして空腹を感じ時計を見ると四時を過ぎていた。今朝から何も食べていなかった。規則正しい食事の習慣などとうの昔になくしていた。 近くに小さな居酒屋があったのをふと思い出し暖簾をくぐった。店は開けたばかりのようで他に客はなかった。 「生」と言った後で壁の品書きを見た。さより刺身の文字が目に入り注文した。 一皿をすぐに平らげジョッキも空にしたところで、もう一度同じものを頼んだ。 今度は冷酒でゆっくりと味わうことにした。 「お客さん、観光?」 二皿目のさよりとガラス製の徳利を運んで来た女が言った。 「いや、仕事だ」 村瀬は皿を置いた女の白い手から、顔へと視線を移した。 「そうなの。ここは初めてね。さよりのお刺身、美味しい?」 女はそう言うと村瀬の目をまっすぐ見て微笑んだ。 「ああ、旨いよ。こんなに旨いのは初めて食ったよ」 女の歳を三十半ばと見た。優し気な可愛い顔立ちだった。色の白いことも相まって、品のいい色気を感じた。 「そう、よかった。これ、地元の大吟醸。きっと合うわ」 「いただくよ」 猪口を手にすると女はさも当然のように酌をした。なめらかな口当たりの香り豊かないい酒だった。 「旨いな」 村瀬がそう言うと、女はまるで自分が褒められたかのように喜んだ。 「また来てくださいね」 そう言って送り出した女の声に、軽く手をあげて店を出た村瀬だったが、二度と来ることはないだろうと思った。いい女だったが、だからといって福井に長居するつもりはなかった。 翌日、木曜の朝。村瀬は店に入ると真っすぐ魁龍のコーナーに向かった。この店に来るのは、他の店をはさみながらで五回目だった。店にある十八台のうち、打つ価値のあるのは三台だけ。残りの十五台はクセが悪く村瀬でも容易には勝てない。三台のうち、その日一番よさそうな台を見極める。村瀬は迷うことなくそのうちの一台を選んだ。 この日、村瀬は運も味方につけ早めの当たりが続き、夕方で十八万の勝ちになった。閉店までまだ時間は充分あったが、そこで切り上げた。勝ち過ぎた。この後の時間と明日は、当たり回数の表示に釣られて誰か素人が飛びつくだろう。それが村瀬なりの店への礼儀だった。村瀬が稼いだ分は、すぐに誰かが店に返してくれる。換金を済ませた村瀬は、店横の路地でタバコに火をつけた。 「すごいわね」 振り返ると、昨日の女がいた。 「見てたのか?」 そう言ってから村瀬は、どうしてここにと聞くのが先だなと思った。 「見てたわ。昼からずっと」 「パチンコ、打つのか?」そんな風には見えない。 「お店の掃除よ。週に二度なの。今日はもう終わったわ。仕事って、パチプロだったの?」 「そうだ」 遊びだとは言わなかった。なぜだか嘘はつきたくなかった。 「あんな出玉、初めて見たわ。プロが打つと出るのね」 女はさも感心したように言った。 村瀬が飯でもどうだと誘うと、女は頷き、居酒屋は今日休みだからと言った。 「菜の花に美しいよ」 焼鳥屋の席で、菜美は名前を教えたついでのような感じで身の上を語った。金沢で生まれ、名古屋で結婚し、すぐに離婚。その後父母が続けて他界して、唯一の身内である祖母の面倒を見るために金沢に戻ったが、その祖母もいなくなり、福井で働くようになった。 三十八だと言った菜美は村瀬の歳を推量し、四十二と見事に言い当てておきながら、長く客商売ばかりしていたからと言い訳でもするように笑った。 「どこかに待たせている人はいるの?」 「女? そんなのはいない」 菜美の問いに村瀬がそう答えると、 「私もひとり」 菜美は問われもしないのにそう言って、それきり口数を減らした。 焼鳥屋を出ると菜美は自然に村瀬の腕に身体を寄せた。近くにホテルはないのかと村瀬が尋ねると菜美は自分の部屋でいいと言った。哀しいほどに何もない菜美の部屋で、まるで遠い昔から約束をしていたかのように二人は求めあった。 何度か昇りつめ、糸を引くような甘い声を出した菜美を村瀬は愛おしく思った。今はもう誰も身寄りのないこの場所で、独り懸命に生きてきた菜美を労わるように抱きしめた。 「大阪に帰ったら、喫茶店を始める」 いままで誰にも話さなかったことを、どうしてこの女に話しているのか、村瀬は自分でも不思議だった。 「喫茶店? ねえ、私も一緒に働いちゃだめ?」 「ああ、そうしよう。手伝ってくれ」 村瀬はなんの迷いもなくそう言った。 菜美は驚いたような表情を浮かべたあと、村瀬の胸に顔を埋め、声も出さずに泣いた。 ずっと永く溜めていた涙を、ようやく安心して流せる場所を見つけたとでもいうように泣いた。村瀬の胸が菜美の涙で濡れた。 肩を震わせて泣き続ける菜美の背をそっと抱きしめた村瀬は、身体中が穏やかで暖かなものに包まれてゆくように感じた。 三日後、いとも簡単に身の回りを片づけた菜美を乗せ、車は大阪へと向かっていた。 春陽の北陸道は眩しいほどに輝き、真っすぐに延びていた。 村瀬は、真新しい眼鏡で、その道の向こうに続く明日をしっかりと見つめていた。
karai