【キャンバスの如き世界】 「最近、子供に声かける不審者が出るって。心配ねえ」 「へえ。怖いね」 僕は成人男性だからきっと関係ないが、一応注意しておこう。そんなことを考えながら朝食を終えて二人分の皿を洗う。 「じゃあ今日も出かけるから」 「あんたも気をつけなさいよ」 「大丈夫だよ。行ってきます」 母の心配性も困ったものだ。不審者が出るというのは気味が悪いが、もう息子は三十路手前。危険なことなんてないだろうに。 のんびりと公園まで歩く。ずっと暮らしている町は見慣れた景色ではあるが、季節ごとに色を変える木々や空は毎日美しい。全てを残したいと思ったのが僕の画業を志した理由だった。それに何のとりえもなかった僕が唯一人に認められたのが絵だったから。ああ、あの頃は何を描いても僕が一番で。家族も僕を認めてくれていたのに。 そんなことを考えていると公園まではすぐに着いた。いつものベンチに腰を下ろして画材を取り出す。 何を描こうかと公園を見渡す。広い公園はいつも親子連れで賑わっているのだが今日は人影がまばらだ。やはり不審者情報が影響しているのだろう。 よく声をかけてくる子たちは大丈夫だろうか。心配しつつ鉛筆を白紙に走らせる。あの子達が来ると絵どころではなくなるから、今のうちに練習しておかないと。とはいえ危険な場所に来ることを親に許してもらえるかは分からないが。 絵を仕上げつつ公園の時計を見る。小学校の下校時刻はとっくに過ぎている。普段なら子供たちが来る時間だが、今日は誰もいない。いたらいたで邪魔だが、いないと寂しいと思うだなんて自分勝手なことだと苦笑しつつ、ストレッチにと立ち上がって伸びをした。その時。 「おっちゃん、こんにちは!」 「こんにちは。あれ、今日も来たの」 「あー、学校からも行くなって言われてるけど暇だし」 「それにおじさんのことも心配だしね」 よく話しかけてくる小学生だ。話を聞いた限りでは兄妹らしい。仲が良くてうらやましい。僕は妹と長らく連絡を取っていないから。 「不審者が出るってね」 「おっちゃんが襲われないように俺らが見といてやるよ!」 男児の威勢のいい言葉に苦笑する。彼らを守るのは自分の役割だと思うが。子供というのは時に勇敢で無謀な生き物だから仕方がない。 「ねえ、今日は私を描いてほしいなー」 「えー、そんなんよりもあれがいい。夕方やってるアニメの……」 また始まった。僕が絵描きだと知ってから、子供たちは絵をねだってくる。似顔絵だったり流行りの漫画のキャラクターだったり。まあ誰かに必要とされるのは嬉しいから対応してしまう僕も悪いか。 「あ、おまわりさんだ」 その言葉に視線を動かすと警官が二人立っていた。きっと不審者を警戒しているのだろう。警官はこちらを見ると二人で話をし、何故かこちらへ険しい顔つきで歩いてきた。 「お兄さん」 「え、僕ですか」 「はい。お話聞かせてほしいんですが」 「最近この辺で子供に声をかける不審者が出るって聞いてませんか」 「あ、はい。でも僕はそんな人見たこと……」 「これ、恐らくあなたのことですよ」 「……は?」 「署までご同行願えませんか。話をお聞きしたいので」 きっと任意同行というやつだ。ドラマで見た限り拒否できるのだろう。でもこんなプレッシャーの中、拒否なんてできようか。青白い顔で頷くしかできない僕の姿を兄妹が心配そうに見つめていた。 「今回はいいけど、気を付けてくださいね」 解放されたのは夜もすっかり更けてからのことだった。兄弟が僕を絵描きだと証言してくれたことやスケッチ一枚ごとにちゃんと日付をつけていたことで小学生を狙う不審者ではないことが証明されたらしく今回は注意されるだけで済んだ。 でも何もしていないのにこんな目に遭うなんて。イライラしながら家に帰る。すると何故か家じゅう真っ暗だった。母は一体どうしたのだろうか。 「お母さん?」 声をかけながら居間に入る。すると母は確かにそこにいた。部屋の真ん中で声も出さずに涙を流している。異様な光景に恐る恐る近づき声をかけた。 「どうしたの」 「警察に連れていかれたんですって?」 「え、ああ。ひどいよね」 愚痴を聞いてもらおうとしたのだが、母は何も言わず泣き続ける。心配になって肩に手を置こうとしたが、伸ばした手は払いのけられた。 「おかあさ、」 「あんた、いい加減自分が世間からどう見られているか気づいてちょうだい!」 母はそう叫ぶと今まで言えなかったのだという不満を全て僕にぶつけてきた。でも。僕は絵が上手いから画家になれるって、お母さんが。 母と言い争いをしたのはこの日が初めてだった。そもそも人と揉めるのが苦手だった。今まで父や妹と折り合いが悪くなった時も母は僕の味方だった。二人がいなくなってしまった後も母だけは僕の味方だった。そう思っていたのに。 気が付いた時には母が頭から血を流して床に倒れていて、誰が通報したのか分からないが僕は警察に囲まれていた。警官の一人が厳しい顔で僕に問う。 「ご自分のことを画家だと言いましたよね。なのに大事なキャンバスで母親の頭を殴ったんですか」 「……私は結局何者でもなかったからでしょうかね」 人生とはキャンバスのようなもので、自分で何色にも塗れると思っていた。だが僕の紙は真っ白のままで、そしてとても小さいものだったのだ。それに僕だけが気が付いていなかった。それだけの話。 #第36回どうぞ落選供養
東妻蛍