#第34回どうぞ落選供養 はじめまして。「第32回 選択」(2024年3月)より投稿させていただいております。昨年亡くなった叔母が数年前に入院していて、見舞いに行った実在の病院をテーマにしました。太宰治が山崎富栄と玉川上水に身を投げた前日、太宰が実際に訪れた史実をもとに、脚色して書きました。タイトルにある岩槻新道とは旧国道16号線です。 タイトル「岩槻新道沿いの病院」 (最初に大宮に来た時、駅から五分も歩かないうちに疲れちまって、中山道沿いの務台病院で点滴を打ってもらったな……。富栄と古田さんに付き添われて。たった一ヶ月前のことなのに、もう何年も経っちまったような気がする……) 一九四八年(昭和二十三年)六月十二日の昼過ぎ。国鉄大宮駅東口の改札を出た津島修治は、そんな感慨に浸っていた。上は白いワイシャツ、下はグレーのズボンに下駄姿の修治は、東口の狭いながらも人通りの多い商店街を三分程歩いて中山道に出た。そこには北側の商店街、東側の中山道に挟まれた務台病院があった。大宮駅東口の南側には、まだ明るいうちから営業していて酒が飲める「いづみや」という居酒屋があったが、酒好きの修治も、さすがに要件を済ませる前に、独りで立ち寄ろうとは思わなかった。 中山道を渡った修治は、さらに狭い路地を東方向に歩き、一の宮通りに入った。一の宮の〝宮〟とは「武蔵一の宮氷川大社」のことだ。四月二十九日から五月十二日までの二週間、ここ大宮の大門町で生活していた修治は、寄寓させてくれた小野澤清澄に挨拶をする前に、古田晁と話をする必要があった。そのため、古田が仮住まいしている、岩槻新道沿いの宇治病院に向かって歩いた。古田晁は筑摩書房の社長だ。古田の細君のと志は、宇治病院の院長である宇治田積(昭和十二年からの三年間に大宮町長を歴任)の細君である義子の妹だ。筑摩書房の経営は厳しく、古田は妻子を長野県の郷里に住まわせて単身、ここ大宮の宇治病院に仮住まいしていたのだ。 津島修治(筆名は太宰治)は流行作家だ。そして筑摩書房社長の古田は、修治の自伝的小説『人間失格』執筆に最適な環境の確保に骨を折っていた。当初、古田が用意した熱海で『人間失格』の執筆を始めた修治だったが、小説『斜陽』のモデルでもあった愛人の太田静子の住む家と近かったことから、新しい愛人の山崎富栄に嫉妬され、やっとのことで古田が見つけてくれた執筆場所が大宮だった。 古田は大宮の天婦羅屋「天清」の主人である小野澤清澄に、大門町の小野澤宅を修治と富栄の寓居としてほしいと懇願、小野澤宅の二階、八畳と三畳の部屋を修治の仕事場とさせてもらう許諾を得た。結核と不眠症に苦しんでいた修治にとって、小野澤宅から徒歩五分もかからない宇治病院へ通院できたことも幸いだった。 小野澤宅での『人間失格』執筆は順調に進んだ。毎朝九時頃に起床して食事。十一時頃から執筆を始め、午後三時か四時ごろには筆を置き、夕食時の酒を嗜む。修治と富栄の食事の世話は、小野澤の姪で十八歳の女学生、藤縄の担当だった。風呂はすぐ近くの氷川神社参道に面した「松の湯」に通った。氷川参道には数多くの闇市が軒を並べており、風呂上がりの修治は闇市の一軒一軒を覗くことが好きだった。 修治は、大宮・大門町での執筆生活がとても心地良かったことを、美知子夫人への手紙に記していた。小野澤宅と宇治病院との間の一の宮通り沿いには、大西屋酒店がある。酒好きの修治が立ち寄らないはずがなかった。一の宮通りと岩槻新道が交わる手前のポストで修治は美知子夫人宛の二通の手紙を投函した。ときには大宮駅近くの映画館に足を運んだことはあったものの、修治が過ごした二週間の〝生活圏〟は大門町だった。後年、藤縄は『人間失格』脱稿を喜んだ修治の顔を「印象的で忘れられない」と述べている。 宇治病院を訪れた修治は、母屋の縁側でその後、二代目院長となった宇治達郎と妹の節子と顔を合わせた。達郎は修治よりも十歳若い二十九歳、節子は二十六歳だった。 「そうですか……、古田さんは長野に帰られて、ご不在ですか……」 落胆する修治を節子はこう慰めた。 「予定では明日にはお帰りになられるそうです。先生、今日はこちらにお泊りになるわけにはいきませんでしょうか?」 「いや、また来ます。古田さんがお帰りになられましたら、宜しくお伝えください」 宇治病院を辞してから小野澤宅に寄り、家人に小説『グッド・バイ』執筆の難航をぼやいた修治は、三鷹へ帰っていった。 翌六月十三日、太宰治こと津島修治は、愛人の山崎富栄とともに玉川上水に身を投げた。 六月十四日、宇治病院へ帰ってきた古田は、もし自分が修治と会えていたら心中は防げたのではないかと、只々悔やむしかなかった。 東京帝国大学医学部を出て、軍医候補生として中国に従軍し復員後、東大病院で胃カメラの開発に着手していた宇治達郎は、三年後に世界初の胃カメラの学位論文を書いた後、宇治病院の院長を継ぐことになる。 「兄さん、もし一昨日(おととい)、先生と古田さんがお会いできていれば、あんな悲劇は起きなかったでしょうか?」 「どうかな? たとえ、一昨日(おととい)、あんなことにならなくても、先生は孤独から逃れられなかっただろうね。先生は生まれてからずっと、家族と周囲の人々に依存せざるを得ない人生を歩まれてきた。依存しても決して充足することができないのが人間だ。だから人に依存すればするほど、コミュニケーションに絶望し、孤独の渦に飲まれていく。コミュニケーションのギャップを埋めようする絶望的な試みが心中だ。先生は少なくとも二回は心中を試みていた。内科医で専門外の私にはそれ以上の推測はできないが……」 参考ウェブサイト①:太宰が住んだ大宮 トップページ (ninja-web.net) 参考ウェブサイト②:宇治 達郎(ウジ タツロウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
- 香車伝(きょうしゃでん)