#第35回どうぞ落選供養 楢の木 岡山県の山奥に野人がいる。そんな噂を耳にし、孝之介は遥々横浜から列車を乗り継いで訪ねに向かった。 山を駆け巡り、季節の果実、山菜、茸、川魚、鳥まで捕まえて食糧にし、一切の道具を使わずに火を焚き、棲家は山の中に三、四つ。洞窟の中、森の茂み、川沿いの平たい地面。転々と居を変えながら、天候や気分に任せて山中を彷徨する。姿を見たものは、髭は茫々、髪は腰まで伸びて散り散りに絡れ、裸の皮膚は赤褐色か青色にも見え、まるで動物か、あるいは神かといった風貌であった。 しかしどうやら日本語は話すらしい。山中には書物が散らばり、民家の新聞を拝借する姿も目撃されている。その地に住む人々は、怪しむというより畏れおののき、互いに干渉し合わずに暮らしている。 孝之介はその暮らしぶりに強い関心があった。そもそも現行の日本の社会の中でそうした生活を維持できていることが凄まじいほどの羨望と疑問であり、その淋しさの境地はいかほどだろうか。あるいはすでに感情を失ってしまったのだろうか。なにがゆえに?山に入る以前にあなたは一体なにを想って暮らしてきたのだ。しかしこの話を聞いた時、たしかに孝之介の心の内で長い間凍結されていた希望という言葉が首をもたげたのであった! 生きるとしたら?この暗闇の中を一歩ずつでも進み生をつづけるのだとしたら?その道を往くのに必要な杖はどこにある?誰が授けてくれる? 孝之介の心は大いに乱れた。逢いたい。野人に逢いたい。逢って、ただその眼を見つめ、その身体から発せられる音を交わしたい。果たして逢ってくれるだろうか。逢えなくてもいい。その山に、その息吹きを感じに、歩いて往きたい。 山村に辿り着き、そこから丸二日をかけて山中へ分け入った。木々のざわめく中、孝之介はその山の深淵を垣間見ているような気がして、なんだか薄ら恥ずかしくなった。山は自分自身である。これから逢いに向かうのは、未来であり、自分自身が託すべき世界である。その技術と心がある。孝之介はそう信じてやまなかった。 山に入って三日目の朝、一本の楢の巨木につきあたった。野人はここにいる。孝之介はそう直感した。葉がヒラヒラと舞うのを見つめながら、ただそのときを待っていた。未知との遭遇を。新しい風景との邂逅を。 孝之介の瞳に陰が映った。 「はじめまして」 陰は返答しない。 「あなたに...逢いにきました」 楢の木が枝を大きく揺らし、山の轟音を伝えた。陰はこちらを静観し、微動だにしなかった。 「あなたに...逢いにきました...」 孝之介は下腹の力を振り絞り、もう一度だけ同じ言葉を口にした。 鎮まる会話の中で、キリキリと胸が痛むのを感じた。 陰が肩の力を抜く。 「か...え...れ...」 ゆっくりと口を開くと、野人はそれだけを楢の木の根元に残して森へ消えていった。 音はすぐに元のリズムに戻り、日が木々のすき間から零れ落ちた。孝之介の頬を照らす光は、暖かくも冷酷だった。 楢の木が傾き、空はやがて淡い黄土色に変化した。孝之介はようやく地面に腰をおろし、頭だけは宙に浮かせたまま胡座をかいて休んだ。 「どうやってここへ辿り着いたのだ?」 孝之介は楢の巨木に尋ねた。 「さあ?足跡はもうすでに落ち葉に埋もれてしまった。記憶の中をもう一度旅してみなよ」 「へえ、木が旅するものかね?」 「地に根ざしていることは、空を飛ぶより自由で広がっているのだよ。出逢いはその中の粒子と粒子が衝突するようなもの。いつでも一瞬で、想い出の中にしか遺らない。目を閉じて、手を伸ばしてごらん。きっと、触れられるものがあるはず。それが世界だ」 孝之介は目を閉じ、手をゆっくりと前に広げてみた。水を掬うように腕を寄せ、ひとつだけ小さく深呼吸をした。 それからふわりと目を開くと、手のひらには団栗が一つ置かれていた。 「ありがとう」 山はまた一つ吠え、木々の傾きを大きくした。 野人はどこに棲んでいる? 心の中の棲家には言葉が溢れ、森の入口を塞いでいた。 通ってきた道。急な斜面。真っ直ぐな木と木の間。獣道。蔦が蔓延る茂みの中。途中で喉を潤した湧水。 民家の脇を流れる水路。猫。苔むしたアスファルト。ガードレール。田んぼ。道を教えてくれたお婆ちゃん。 鉄道。駅。居眠りするスーツ姿の男の人。ゲームをする小学生。優先席に座る妊婦さん。トンネル。車掌の声。 空を飛ぶ飛行機の音。お皿が割れる音。車のヘッドライトの眩しさ。トイレの匂い。ボール。芋虫に群がる大量の蟻。 母親の声が聞こえる。遅れて遠くから父親の声。病院。看護婦の甲高い声。 それより前は...。 辺りが暗くなり、夜が孝之介を押し潰そうとしていた。楢の木が一層大きく枝を広げ、風に葉を数枚散らした。 野人が現れた。 「生きよ!瞳を閉じ、音を遮断し、ただ黙せよ。歓びに蓋をし、苦しみを味わい、その寂しさに生を全うするのだ。痛みは実感である。超越に逃避するな!生き、感じ、そのとき初めて見聞きされるものに身を委ねよ。手足がよく喋れば、その分だけ口は余計である。生きることの名人であれ。到達することの未熟者であれ。道を往き、その心に立ち還り、我が情緒に火をつけよ!」 孝之介は永い夢から醒めた。手の中には想い出が一つ、春をとじこめて転がっていた。
- はみがきこ