#第35回どうぞ落選供養 こんにちは。落選作品を誰かに読んでいただけるかもしれないなんて、ありがたい。 せっかくの機会なのでポチっとさせていただきます。 ずいぶん前の作品です。テーマは賭けです。 『戦略的結婚』 「生まれたわ。元気な男の子よ」 会社の窓からは、夕闇が忍び寄るオフィス街の景色が見える。生き生きとした妻の声は、携帯電話を通して僕の耳に響いた。 妻を労い、すぐに産院に向かうと伝えて通話を切る。体から力が抜ける。生まれてからでさえ、こんなに居たたまれないのだ。昨日、妻に出産の立ち会いを断られてよかった。 もうすぐ僕の賭けの結果がわかる。不安で心臓が締めつけられる。いや、それだけじゃなかった。今朝の手帳の件はどうなるだろう。 出かけ際に「落ちてたわよ」と妻に渡された黒表紙の手帳。あの時、僕は妻の顔をまともに見られずに目線を落とした。彼女の首元に音符型のチャームがついたシルバーのネックレスが見えて、またこの安物をつけているのかとボンヤリ思った。妻は僕が買い与えた高級品よりも、自分で買ったという、それをよく身に着けている。 妻は、手帳の中身を読んだだろうか。『戦略的結婚』の文字を見ただろうか。 上司に事情を話し、定時まであと一時間だが、早退させてもらうことになった。上司も同僚も僕が笑顔で頼めば大概、快く許してくれる。昔の僕の外見なら考えられない対応だ。 だが彼らは時々、悪気なく僕の心を抉る。 「男の子か。絶対、イケメンだよな」 「でも男の子なら、母親似って言いません?」 「奥さんも超美人だよな。音大出のお嬢様。自宅でピアノ教室の先生をやっているって」 「美男美女夫婦だもん。赤ちゃんは絶対、美形って決まってるよね」 僕は曖昧に微笑むしかない。皆が予想する結果になったのか、まだわからない。 タクシーで産院に向かう間、僕はバッグの中の黒表紙の手帳にそっと触れた。もう一つの問題。僕の秘密を書いた日記帳が、何故妻に拾われてしまったのか。デスクから持ち出した覚えもないのに。それとも昨日、ワインを飲み過ぎてしまったのだろうか。 もし妻が『戦略的結婚』のことを知ったらどうなるだろう。彼女は普通に恋愛して結婚したと思っている。美しく従順で控えめな理想的な妻だ。結婚してほどなく妊娠し、幸せ一杯の今、僕が外見的要素を重要視して彼女を選んだと知れば、深く傷つくに違いない。 外見だけが完璧の対極にあった僕は、医療の力で今の姿を手に入れた。あとは完璧な自分の子を作れば、僕の外見を疑うものなど現れないはずなのだ。 僕の理想は、二重瞼で大きな黒目勝ちの瞳だが、あえて切れ長の一重瞼の女を妻に選んだ。僕と同系統の顔にしないと、生まれた子供の顔が不出来の場合、僕の秘密が暴かれる恐れがあるから。ただし同系統でも、最高峰の顔立ちの僕の妻。妻は日本人形のように整った顔立ちの完璧な美人だ。 産院に到着して、妻の病室に向かう。病室は追加料金を支払って個室にした。廊下を進んで行くと、誰かいる。妻の病室から男が出てきた。派手なパーカーの上に白いダウンコートを着た男。背は高いが、まだ少年だ。 「こんにちは。先生の『夫』さん」 少年は僕に気づいて大きな目を見開いた。 「ああ、君はピアノ教室の」 正面から顔を見ると、彼の大きな目には見覚えがあった。普段の学生服とは雰囲気が違ってわかりにくかったが、妻の教室の生徒の高校生だ。大きな黒目勝ちの瞳で二重瞼、長い睫毛まで持っている、僕の理想の顔をした少年だった。 「赤ちゃん、すごく可愛い男の子ですよ」 何故か自慢げな彼に、僕は少し苛立った。 「ありがとう。わざわざ来てくれたんだね」 「陣痛が来たって、連絡をもらったんで。冬休み中でよかったです」 この少年は、僕よりも先に連絡を受けたのか。咄嗟に問い質すこともできず、僕は彼の満足そうな笑顔をただ見送った。その首元に音符型のチャームがついたシルバーのネックレスが揺れるのが目に入り、息が止まる。妻のつけているのと瓜二つのネックレスだ。 妻の個室に入り、ベビーベッドを覗きこむと、ちょうど我が子が目を開いた。整った顔立ちに、黒目勝ちの大きな目は二重瞼で、艶めいた睫毛は長い。僕や妻とは系統の違う顔。 「あなたの黒い手帳、素敵よね」 呆然と赤ん坊を見つめる僕の耳に、妻の弾んだ声が響いて、顔を上げた。 妻は切れ長の目を細め、一見、慈愛に満ちた柔らかな笑みを僕に向ける。 「あなたは完璧な外見の子供がほしかったんだから、賭けに勝ったでしょ。私はあなたに賭けてよかった。まさに戦略的結婚ね」 窓の外はいつの間にか、完全に夜の闇に塗り替えられていた。 ベッドの上で目を覚ました赤ん坊が泣き始めたのを、僕は長く見つめていた。 了
- 紀乃ロロ