最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「喉の小骨」朝田優子
夕食にアジフライが出た。最近胃もたれがひどいから揚げ物はやめてくれとお願いしていたのに。目の前の妻は涼しい顔で食べ進めている。きっと確信犯だろう。
妻とはここ一、二カ月冷戦状態が続いている。結婚して一年ほど経つが、家事を手伝えと訴えてくるようになったのだ。子供もいないパート勤めなのだから、彼女の方が家事を主に担当するのは当然ではないだろうか。タイミング悪く俺の仕事が忙しくなり、小さなすれ違いやいざこざが積み重なって今に至っている。
仕方なくアジフライを食べると、喉に小さな痛みが走った。最悪だ。アジの小骨が喉の奥に引っかかった。確かこういう時はご飯を丸呑みするといいと聞いたことがある。
「飯。小骨刺さった」
茶碗を差し出すと、妻はわざとらしくため息をつくと立ち上がり、ご飯をこんもりとよそった。黙ってそれを受け取り一気にかきこんだが、喉の違和感はなくならなかった。思わず舌打ちすると、妻が呟いた。
「一生引っかかってればいいのよ」
冗談めかした口調だったなら俺は声を荒げていたかもしれない。彼女の声があまりにも真剣だったから、何も言い返すことができなかった。
翌日。浅い眠りから覚めて真っ先に喉の小骨が存在を主張してきた。洗面所の鏡の前で大きく口を開けてみたが、死角にあるのか小骨は見えなかった。気になって仕方がない。このまま取れなければ、週末病院に行こうと決めた。
こんな日に限って一日中会議で予定が埋まっていた。発言しなければならないタイミングも多く、その度に小骨を意識してしまいうんざりした。
今日何度目かの会議が終わった時、部下が俺の様子に気付いたのか話しかけてきた。
「先輩、風邪ですか?」
「いや、昨日からアジの小骨が喉に引っかかって取れないんだ」
「それは辛いですね」
心底心配そうな目で見つめてくる。こいつは数年前から俺の直属の部下だ。俺がいくらイライラをぶつけても文句ひとつ言わないし、どんな雑用も引き受けてくれる便利な奴だ。
「もう集中できねーわ。さっきの会議の追加資料、任せていいか?」
「わかりました」
彼は大きく頷いた。資料作成くらい自分でもできるが、面倒な案件だったから助かった。
週末。ついに小骨は取れなかった。ネットで調べた小骨の取り方を片っ端から試したが効果はなかった。話すたびに、何かを飲むたびに、不快な違和感が俺を襲った。こんなに些細な出来事が日常生活に支障をきたすとは思ってもみなかった。
近所の耳鼻咽喉科に行って、俺はさらに絶望することになる。
「そう言われてもね、レントゲンには何も映っていないんです。何もありませんよ」
医者は訝し気に俺を見ている。
「そんなことあり得ない。ずっと引っかかっている感覚があるんです」
「精神的なものかもしれません。思い込んでいるだけの可能性がありますね」
「そんなバカな」
俺は何度も訴えたが、医者は首を振るばかりだった。
週明けの夜。見えない小骨のストレスで嫁にきつく当たり大喧嘩になったと部下に愚痴ると、飲みにでも行きましょうと誘ってくれた。会社近くの居酒屋に二人で入った。
「しかし不思議なこともあるもんですね」
「不思議だよ。でも絶対気のせいなんかじゃないんだ」
「別の病院でも診てもらったほうがいいかもしれませんね」
「お、それはいいな」
注文を部下に任せ俺はどんどん食べ進める。
「あ、先輩。これも良かったら食べてください」
部下が小鉢を俺に寄越した。
「なんだこれ。ほうれん草のおひたしか?」
「はい。新メニューらしいんですけど前食べたら結構美味かったんです」
「おお、確かに美味い……うん?」
飲み込んだ時、奥歯にほうれん草の筋が挟まった気がした。
「げ、歯に挟まった」
「それも取れなくなるかもしれませんね」
「おい、笑えない冗談なんていうなよ」
「冗談なんかじゃないですよ」
部下の目が笑っていないように見えたが、気のせいだろう。
(了)