阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「橋」リュウキュウアサガオ
「おーいこっちに来いよ」
誰かが僕を呼んでいる。男の声だ。行かないと。そう思うもののやけに眠い。体がだるくて足が鉛のように重い。
「早く来てくれー」
お前は一体誰なんだ。心の中で悪態をつく。眠くてぼやける目をこすって向こう側を見ようとする。ダメだ。ろくに見えない。顔はわからないが人影のようなものが薄ぼんやりとある。
「今すぐ来ないと手遅れになるぞー」
「行くから大声をやめてくれ」
小声だったので伝わったかどうか定かじゃないがいったん男の声は止んだ。歩くとゴツゴツとした感触が足裏からする。何故か靴も履いていない。それなのにさほど痛まない。鈍い感覚が足裏から広がっていく。
数歩進んだところで足を止める羽目になった。目の前は川だった。水底が見えないくらい深くて向こう側まで幅も広い。これじゃ歩いて行けそうにない。
「横に行くと橋があるからそこから来い」
向こう側からまた男の声がした。どうやら向こうからはこちらが見えているらしい。反抗する気力もなかったので素直に川伝いに歩いていく。橋はどこにあるんだろう。何だかふわふわと夢心地だ。ここはどこだろう。僕はなんでこんなところにいるんだっけ。
「ああ僕は死んだんだっけ」
ふと思い出して納得する。するとここは三途の川だろうか。もしかすると向こう側にいるのは僕の知り合いかもしれない。しばらくすると橋が見えてきた。やけに立派な石橋だ。
「ここを渡ると完全に死んじゃうのかな」
でも僕は自殺して助かる余地なく死んでいるはず。大体助かったところで生活の当てもなく心配してくれる家族知人も生きておらず何より体を壊しているためすぐに死ぬ羽目になるだろう。渡っても特に問題あるまい。足を一歩踏み出そうとするとさっきの男の声とは違う声がした。
「ダメよこの橋を渡っては。向こうは地獄よ」
女の人の声なのでさっきの男とは別人だろう。きょろきょろと辺りを見回すと誰も人影は見えない。
「あなたは誰なんだ」
小声で訊ねるものの名乗りはない。
「向こうは地獄よ。行ってはダメ。別の橋があるからそこへ行きなさい」
そう言われるとさっきの男の声が怪しいものに思えてきた。あれは本当に知人だったのだろうか。やけに眠気が強いから判断できない。とりあえず石橋へ進みかけた足を引っ込めて別の橋を探そうとするとさっきの男の声。
「騙されるな。別の橋こそ地獄行きだ。その女の言うことを聞くな」
「惑わされちゃダメよ。あの男の言うことは嘘だわ」
おいおいどっちが正しいんだ。こんな頭でわかるわけないじゃないか。男と女の声が交互に響いてうるさい。わけがわからなくなってきたので川伝いに歩き続けることにした。そうしている間は声が聞こえる頻度も少なくなった。やがて川を伝っているとまた橋を見つけた。今度は木橋。さっきの石橋より脆そうだ。怪しい。
「この橋を渡って。そうすれば地獄に行かずにすむわ」
「騙されるなそっちに行ったら悲惨な目に遭うぞ」
女の声と男の声。今度は女がいる方に続いている橋らしい。
「お前たちは誰なんだ」
誰何は何度もしたが答えは沈黙のみ。正解がわからないのでまた別の橋を探すことにした。女と男は天使や悪魔の類だろうか。どっちがどっちだかわかったもんじゃないけど。テクテク歩いているとまた橋があった。今度は鉄橋だ。足を踏み入れる。今度はどちらの声もしない。
「誰かいないのか」
返答はない。今までは向こうにいるらしい相手の声がしたがこの鉄橋からはなにも音沙汰がない。こうなってくるとまた怪しく思えてきた。大体橋を渡る必要があるのだろうか。別に死んでしまったんだし川の傍でずっと過ごしてもいい気がしてきた。どれを選んでもろくでもない結末になりそうな気がする。
すると突然視界が真っ白になった。意識と一緒に体が段々消えていく。そうして僕は死にそびれた。
「おお息子よ」
「ああまた会えないの」
さっきの男と女の声が死に別れた両親の声だと気づいたのはその時だった。どうやらあの世でも親権争いをしているらしい。
(了)