阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「夕方の誘拐」つちやぼたん
「ハル兄、わたしを誘拐してよ」
小学三年生の瑠美は、春貴にそう言った。
春貴はコンビニのバイトを終え、帰って来たばかりだった。自転車を下りたところで、家の前に瑠美がいるのに気づいたのだ。瑠美は春貴の顔を見るなり、さっきの言葉を口にした。「誘拐」。春貴は驚いた。
近所のよしみで瑠美のことは小さい頃から知っていた。瑠美とはひと回り年が離れているが、妹のように面倒を見てきた。最近は遊びに来なくなったなと思っていたら、突然の「誘拐して」の発言だった。どうしたのかと尋ねたが、瑠美は唇を噛みしめてうつむいたまま、何も言わなくなってしまった。
春貴は息をついた後で、「しゃーねえなあ。どこまで『誘拐』されたいんだ?」と訊く。すると瑠美は顔を上げた。
「隣町のじーちゃんと、ばーちゃんち!」
予想に反して大きな声で答えが来た。なんだ、元気じゃん、と春貴は少し安心した。
「じゃあ、チャリの後ろ乗れよ。連れてってやるから」
「『連れてく』じゃないの! 『誘拐』!」
「はいはい、誘拐ね」
「うん! でも、自転車じゃなくて、黒い車で忍び寄って、わたしに声かけてくれない? 誘拐っぽくさ」
「不謹慎だな。だめだめ。うちんちの車、青だし、今兄貴が乗ってってるわ」
「ええー。つまんなーい」
「チャリで『誘拐』されとけ。な?」
「はぁい」
不服そうな声をあげながら、瑠美は自転車の後ろに乗る。春貴も自転車にまたがり、ペダルを漕ぐ。
「重たっ」
そう言うと瑠美が背中を叩いてきて、自転車がぐらつく。瑠美は声をあげて春貴の腰にしがみつく。春貴は笑って、わざと蛇行運転しながら道を駆ける。
春が本格的に始まって、桜が咲いていた。桜吹雪の中を二人は風を切って走り抜ける。疾走感と同時に瑠美の小柄な身体から熱が伝わってくる。さっき、瑠美がうつむいて黙っていたとき、泣いているように見えた。瑠美は小さい頃から強がりな子だった。転んでも歯を食いしばり、年上の春貴とも対等に勝負したがる。もし瑠美が泣くとしたら、相当なことがあったときだけだろう。
「ハル兄さあ、マナミさんとはどうなったの」
「あー? なんだよ急に」
「今も付き合ってる?」
「お前には関係ねーよ」
「別れたんだ?」
「なんでそう思うの」
「関係ねえって言うときはいつもそうじゃん」
「生意気なこと言うなあ」
「ケンカしたの?」
「……いや。瑠美はさ、こんな話がしたかったの?」
春貴が真面目に問い返すと、瑠美は首を横に振って言った。
「……うちのお母さんとお父さんが、またケンカしてたから」
気がつくと、町の境を流れる川にたどり着いていた。幅は広いが穏やかな川だった。夕日の光がまぶしいくらいに水面で光っていた。その光を切るように大橋はかかっていた。これを渡ったら隣町に着く。
川は風が吹きつけるので二人は自転車を一度下りた。春貴が橋を渡り始めるが、瑠美は橋の手前で立ち止まってしまった。行かないのかと声をかけても、瑠美は動かない。春貴が引き返すと、瑠美はぽつりと言った。
「瑠美が誘拐されたら、二人ともケンカやめてくれるかな?」
「……」
「瑠美を愛してるよって二人とも言うの。でも嘘だと思う。愛してるなら、目の前でケンカなんてしない……そう思わない?」
瑠美の話に、春貴は、いつか恋人の耳元でささやいた「愛してるよ」という言葉を思い出していた。そして、自分の「愛している」という言葉にこそ、瑠美が「嘘だ」と言ったように感じた。
「……嘘じゃないと思うよ」
そう春貴は言ったが、瑠美の目を見られなかった。瑠美はうつむいたままだったが、しばらく立ち尽くした後で、
「やっぱり帰る」
と小さく言った。春貴が本当に平気かと確かめると、瑠美は強くうなずいた。道を引き返す途中、瑠美は春貴の背中でつぶやいた。
「嘘じゃないって言ってくれてありがとう」
春貴は、また、無責任なことを言ってしまったように感じた。愛をわかっていないやつが、その場しのぎで言ってしまった、と。だが、気持ちを偽ったわけではないのだ。春貴は、自分にしがみつく瑠美を守りたかった。
行きより優しくペダルを踏んで帰った。
(了)