阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ロッカー」三嶋千景
大きなあくびをした時、電話が鳴った。あたりを見ると、自分以外誰もいない。時計を見ると、十二時を過ぎていた。いつの間にか休憩時間になっていたのだ。
僕の職場では、平日の十二時から十三時は休憩時間だ。その時間の電話番は、社員が交代で行っていた。今日の電話番は自分だったことを、ふと思い出した。
鳴り続ける電話機に仕方なく手をかけた。二コール以内に電話に出るというのが社内ルールだったが、僕はそのルールを守ったことがない。
電話の相手は取引先の担当者だった。以前発注を頼んだ冊子の納品がいつになるか教えてほしいとのことだった。
僕の勤めている会社は小さな印刷会社だ。たいていは従来から取引を続けている会社からの依頼が多いが、電話口で聞いた会社名には聞き覚えがなかった。他の営業担当者がとってきた新規の顧客だろうか。確認しておきますと言って、僕は電話をきった。
発注書を保管しているファイルを棚から出し、ぱらぱらとめくっていった。取引先ごとにファイリングされた資料には、分かりやすいように見出しがついている。電話で聞いた会社名の見出しは見当たらない。
あまり取引のない会社は「その他」と書かれた見出しのページに保管されていた。「その他」のページをめくったが、その会社の書類は見当たらなかった。発注をかけていないのだろうか。
まあいいかと思いデスクに戻り、机上のキーボードを手元に引き寄せると、もともとキーボードのあった場所から小さな四角い紙が出てきた。手に取り裏返してみると、さきほど電話のあった会社の担当者の名刺だった。
まさか、と悪い予感に襲われた僕は、慌てて引き出しの中をがさがさと探りはじめた。
書類の山から、ぐしゃぐしゃに折れ曲がった見積書が出てきた。
じわじわと記憶が蘇ってきた。たまたま営業に行った新規の会社から依頼の連絡があったこと。見積書を送って、発注を頼まれたこと。それから・・・。
発注書を確認しようと改めて引き出しの中を探り始めた僕は、嫌な予感を拭うことができなかった。どれだけ書類の山をあさっても、発注書が見当たらない。先方に見積書を送って、その後どうしただろうか。思い出せない。いや、思い出す記憶がそもそもない。
発注するのを忘れていたのだ。
体中の血液が一気に抜けていくような感覚にとらわれた。
先ほど書類の山から探しだした見積書を見てみると、今月中の納品希望とメモしてあった。卓上カレンダーを確認する。今日は三十日だった。まだ納品されないことを不審に思い、おそらく電話をかけてきたのだろう。
発注してから印刷が完了するまで、一週間はかかる。今から発注をかけても、明日までに納品することは絶対に困難だった。
見積書を持つ手が震える。呼吸の仕方を忘れたかのように、口をぱくぱくとさせ、うまく息継ぎができなかった。
パニックになりながらも、頭の一部では冷静な考えをしている自分がいた。
先方から連絡があった時、電話口で私は自分の名前を名乗っていない。先ほどの電話でも、発注を受けた時も、自分の名前は伝えていないはずだ。
大丈夫だ。自分がやったとばれなければ良いんだ。
自分が注文を受けたという証拠自体を抹消するにはどうすればよいか。そうだ、見積書自体破棄してしまえばいい。
シュレッダーにかけようと機械の電源を入れると何も反応がない。何度電源を押しても起動する気配がない。よく見ると、「故障中」と書かれた紙が貼ってあった。
その時、休憩に行っていた他の社員たちが帰ってきた。手の中で見積書をぐしゃぐしゃに丸め、背広のポケットに突っ込んだ。
今すぐに書類を手放したかった僕は、辺りを見回した。ゴミ箱に捨てて、もし誰かが拾ったら大変なことになる。引き出しの中も、誰かに見られるかもしれない。
休憩行ってきますと言って、足早にその場を去った僕は、会社から出て、まっすぐに駅の方向へと進んでいった。駅前にはコインロッカーがある。とりあえずコインロッカーの中に見積書を隠せばいい。次の日回収して、会社のシュレッダーにかければ問題ないだろう。
駅前のロッカーに着くと、財布を忘れたことを思い出した。確か背広のポケットに小銭を入れていたはずだと思い、ポケットに手を突っ込んだ。先ほど入れ込んだ見積書が邪魔でうまく取り出せない。焦りすぎてポケットの中身を地面にぶちまけてしまった。
地面にはぐしゃぐしゃに潰れた見積書、小銭が数枚転がっている。その中に、番号の書かれた楕円形のキーホルダーが付いた小さな鍵があった。コインロッカーの鍵だ。
書かれた番号のロッカーに鍵を入れ、回すとかちゃ、と鍵の開く音がした。
扉を開けると、山のように積み重なった見積書の束があった。僕はその山の上に、そっとぐしゃぐしゃの見積書を載せ、静かにロッカーをしめた。
先方に営業にいった時、自分の名刺を相手に渡しているから見積書を隠しても意味のないこと、同じミスを何度も繰り返して、次にやったらクビだと上司に言われていることも、ロッカーの中に一緒にしまいこんだ。
ロッカーを閉めた時、ほっと安堵した。
(了)