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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「雪の日の出来事」名梨夢之介

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第61回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「雪の日の出来事」名梨夢之介

「あ、雪だ」

江美はガラス戸を覗いて小さな声を上げた。三月にしては珍しい雪だ。庭に少しずつ積もり始めている。彼女は夫に雪を見せようとして部屋の中に入った。

「雪が降ってきた。見てみる?」

彼女はベッドで横になっている夫のそばに来て車椅子の用意をした。廊下に出ればガラス戸越しに雪を眺めることができる。

「ユキ?」

夫は妻の声を聞いて鸚鵡返しに言った。

「そう、久しぶりの雪」

江美が答えると、夫は、ユキ、ユキ、ユキ、と口の中で唱えながらベッドから起き上がり、妻の助けを借りて車椅子に乗った。

七十代の半ばを超えた夫は脳梗塞による半身不随の上に認知症がかなり進んでいて、妻の介護がないと殆んど生活ができない。病状は日毎に重くなるばかりで、しだいに物忘れがひどくなってきているのだが、それでも、ユキという言葉をたびたび口にすることがあった。江美は、最初、夫が雪を見たがっているものとばかり思っていた。ところが、

「ユキさんはどこにいる?」

夫が突如として江美に尋ねる。ユキというのはどうやら誰かの名前のようだ。それにしても江美にはそんな人は全く心当たりがない。

「誰なの、ユキさんというのは」

彼女が訊くと夫は急に口を閉ざしてしまう。

しかし、夫の好きだったゴルフの話を持ち出してそれとなく問い質してみると、ユキというのは夫の不倫相手の名前であることが分かってきたのだ。

夫が会社勤めをしていた四十代の頃、会社の接待ゴルフがあり、そのカントリークラブでキャディをしていた若い女性と偶然出逢い、それから深い関係になったというのだ。

「どれくらい続いたの?」

はらわたの煮えくり返る思いを押し殺しながら、江美がそっと訊いてみる。

夫は最初のうちはちぐはぐなことを言って何とか妻をはぐらかそうとしていたが、最後には観念したように白状した。

「二年ぐらいだったかな……」

日々献身的に介護をしてくれる妻の姿を見て夫は懺悔と悔恨の情にほだされ、赦しを請うべく思わず過去の背徳を口にしてしまったのだろう。

それを聞いて江美には思い当たる節があった。もう三十年も前の話だが、夫は密かに新しいネクタイを締め、螺鈿の入った高級タイピンをつけていたことがあった。あれは、ユキという不倫相手の女性からプレゼントされたものに違いない。

夫が不審な行動をとっていたことは確かだ。その当時、何か隠し事をしているのではないかという雰囲気がどことなく漂っていた。例えば、土曜日になると妙に落ち着かなくなり、浮き浮きした顔を見せてゴルフに出かけて行く。しかも、帰りは遅くなり、時には夜中の十二時や一時になることもあった。「これも仕事仲間とのつき合いで、仕方がないよ」などと、まるで他人事のように愚痴をこぼしていたが、その愚痴とてその場を取り繕う口実にすぎなかったのだ。

介護生活の中で夫は何度も妻への感謝の言葉を口にしたが、江美はこれまで五十年近い年数を共に過ごしてきたこともあり、夫の介護をするのは妻として当然のように思っていた。老人ホームに夫を預けることもできたが、江美はそのようなことはせず、毎日夫の傍らに身を置いて面倒を見ることにしたのだった。

夫は認知症がひどくなり始めてからも幾度もユキという名を口にするようになった。ユキという女性は夫の記憶の中に深く刻み込まれ、死ぬまで消えることのない思い出の人なのだ。が、江美は、その女性が夫の不倫相手だったという事実を知ると、結局は夫に裏切られたのだという怒りの感情が急激に込み上げてくるのだった。

「ユキはどこ?」

夫が尋ねる。

「ほら、あんなに降っているでしょう」

「どこにも見えないよ」

夫は、大事なものでも探すかのように、降りしきる雪に虚ろな視線を送っている。

「ユキさん、どこだ、どこにいるんだ」

夫は駄々をこねるように訴えている。

これを見た江美は、

「そんなに逢いたいなら、行きなさいよ」

と言って、ガラス戸を開けると、車椅子ごと夫を庭に突き落とした。

(了)