阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「るつぼ炎上」槙野世理沙
「ねえ、その中、何が入ってるの」
貴司が挙げた神経質な声に、美奈都は表情を曇らせた。ここは貴司のアトリエ、という名の、ただのワンルームマンション。エアコンは電気代が高いので使っていない。美奈都が実家から持ってきた小さなヒーターがあるだけだ。そもそも暖房器具云々でなく、美奈都は裸なのだから寒いに決まっている。貴司の絵のモデルをするのは慣れっこだが、やはり冬場は寒い。しかも、ほんの少しくしゃみをしても貴司はポーズを崩すなと嫌な顔をするから。貴司は、美奈都が持っている壺を指して、もう一度言った。
それ、何が入っているの、と。
百円ショップで買った、アンティーク風の雑貨だ。何が入っているか? 何も入っていない。貴司から受けたのはポーズの指示だけで、表情のオーダーはされていない。それに、何時間も顔の表情を作っておくなんて、美奈都には無理だ。美奈都はプロのモデルなどではなく単なるOLだ。かつては芸術で食っていくと夢見たが、美大に籍を置くうちに己の才能の限界を知った美奈都は、普通の事務員として就職した。貴司には確かに才能があったが、才能だけで食ってはいけず、卒業後もずっと夢追い人を続けている。食い扶持を稼ぐという意味で、プロの画家ではない。
「その壺、何が入ってるつもりで持ってるの? その表情とか、あるでしょ」
「うーーん……そうだね……」
厳しい意見。志高い言葉。貴司は美奈都を鼓舞し、偉大な芸術家である自分に釣り合う女性にしようというつもりなのだろう。だが美奈都はもう、貴司の言葉でさほど勇気づけられない。絵画の中、美しい裸婦の抱えている壺の中身は何か。ぼんやりと考える。
とろり、と柔らかな白が、美奈都の頭の中に広がった。壺の中に入っているのは、緩く滑らかに泡立てた生クリームだ。貴司と付き合い始めた頃は、生クリーム山盛りのパンケーキを食べに行ったり、夜景を見に出かけたりと普通のデートもした。その後は、ほとんど、写生旅行ばかりだったが――。いけない、無表情になってしまう。学生時代を思い出して幸せに浸れるほど、今の美奈都に心の余裕はない。ちら、と貴司の顔を伺った。ほら、やっぱり。美奈都の表情に納得のいっていない顔をしている。美奈都はもう一度考えた。自分の抱える壺の中に、どんなものが入っているのか。
「うーーん……」
どろん、とイメージが広がる。液体だ。赤黒い、粘り気のある液体が見えた。数か月前、美奈都は産婦人科に居た。子どもを堕ろした。もちろん、貴司の子供である。手取り十万円ちょっとの自分と貴司では選択肢などなかった。壺の中の赤黒い液体を、ごめんね、と排水溝に流すと、壺の中には、真っ黒な空洞が広がった。
「ああ、それ。いいよ、その顔」
貴司は満足げに頷いてから筆を執った。のんきな貴司。才能溢れる貴司。私の愛しい貴司。芸術家にはよくいる。人の心の機微に疎くて、金儲けどころか生活費のことすら考えず、荒れた生活をかろうじて恋人に面倒見てもらっている男。残念ながら、そういう芸術家が名を成すのは、死後というのが定説だ。哀れ未亡人となった女は、パトロンを得て夫の遺した作品を見事に売り捌き、悪妻だの金の亡者だのと世間から陰口をたたかれる。
美奈都の抱えている小さな壺の中身は、ぎっしりと重い石の塊に変わった。色は黒。段々熱されて、赤く変わって、融けていく。熱と硫黄臭が、ぼこぼこと底の方から沸き立つ。それはマグマだった。素手で持っていられるのが不思議なくらい、煮え立っている。
美奈都は、貴司を愛している。怒ってもいる。いつまで、中途半端なままでいるのか。二人で暮らせば生活費は節約できるのに、貴司は「アトリエ」を手放そうとしない。卒業後は実家からの仕送りも途絶えて収入はない。結婚する気もなく、生活費を稼ぐ気もなく、だが美奈都を手放すつもりも恐らくない。こんな関係、やめなければ。わかっているのに、美奈都から別れを切り出すことはできなかった。仕事を探すように貴司に言うこともできなかった。悪いのは、誰だ。貴司を切り捨てることのできない、自分だ。
マグマの表面が、すぅと静かになった。透き通った液体の表面が銀色に光っている。突然現れた、楽園の泉のようなイメージに、美奈都はそっと壺の中を覗き込んだ。つんと鼻を刺激する匂い。ああ、これは……
「ガソリン、かなぁ」
「えっ?」
美奈都は、貴司の側にあったヒーターに向けて、壺を振りかぶった。