阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「隣人」平井ゆうま
ファミレスのバイトは定時に終わった。
タクヤはマネージャーから来月のシフト表を受け取ると、ろくに確認もせず、
「お疲れした」
と、いいかげんな挨拶をして店を出た。
通勤に使っているクロスバイクにまたがり、スタンドを蹴りあげたところで、背後からマネージャーがなにか声をかけた。が、タクヤは聞こえないふりをして、そのまま右足でペダルをグンと踏みこんだ。
(悪いね。ウチで彼女が待っているもんで)
ギアはLOWで重かったが、応分の加速を得て走り出すと、風が生まれ頬を流れた。
自宅近くのコンビニで夕食に弁当を買い、軽量鉄骨2階建てアパートの駐輪場にバイクを滑り込ませる。そして、これから始まる彼女とのひとときに胸を躍らせながら、タクヤは鉄製の外階段を、カンカンカンカンとリズミカルに駆けあがっていった。
◆
自室に入りドアを閉め、カギをかける。
カチャリと冷たい音がする。タクヤはこの音が好きだった。
それはこの部屋が下界から隔絶されたことを告げる合図。都会の片隅に佇むアパートの一室は、この瞬間から、誰にも邪魔をされないタクヤと彼女だけの世界となる。
1DKの四畳半ほどのダイニングにコンビニ弁当を置き、奥の六畳の和室に入る。
そして息を殺し、隣室と接する壁にそっと耳を当ててみる。が、人の気配はない。
彼女はまだ帰っていないようだ。
(なんだよ。マリエ、まだ帰ってないのか)
数週間前、長く空き家だった隣室に新しい住人がやってきた。このアパートの壁はとても薄く、漏れてくる友人らとの会話から、隣人がマリエという名の若い女性であることは、たちまちタクヤの知るところとなった。
そしてある日、アパートの通路でマリエにバッタリ出会って以来、タクヤは一方的に彼女に好意を抱いたのだった。
しかし、実際には声をかけることもできず、虚しく悶々と過ごすうちに、タクヤは妄想の世界で、マリエとの関係を深めていった。
壁の薄さが、彼の妄想に拍車をかけた。
タクヤはいつも耳をそばだてて、マリエの動静を知り、隣室から漏れ伝わるさまざまな生活音から、彼女の表情や仕草、そして姿態を想像し、歪んだ興奮に身をまかせた。
時には、まるでヤモリのように壁に吸着し、全身を耳にしてマリエが発する音を求めた。
マリエが動けばヤモリもその後を追う。衣ずれの音、物憂げなため息、そして寝返りをうつ気配。何一つ聞き洩らすことはなかった。
この薄い壁1枚をへだてただけの、ほんの数十センチ、いや時には数センチ先に、確かにマリエがいるのだ。もはやその温もりや甘い匂いすら、タクヤには感じられるようだった。
そして今夜も、二人だけの時間がまもなく始まるはずだ。タクヤの心を湿った欲望が、わずかなためらいとともに満たしていく。
だがその時、彼は突然現実に引き戻された。
タラタッタンタッタンタン!
スマホが無機質な着信音を響かせる。マネージャーからだ。タクヤはひとつ舌打ちをして、露骨に不機嫌なトーンで電話に出た。
「はい、ナカモトっすけど」
マネージャーの用件は、間違ったシフト表を渡してしまったから、差し換えたいというものだった。タクヤはまた適当な返事をして電話を切り、妄想の世界へ戻ろうとしたが、しらけた空気が、すでに興奮を冷ませていた。
仕方なく万年床に寝ころび、何も知らずに家路を急ぐマリエの姿を想像してみる。
かわいいマリエ。僕のマリエ。早く帰っておいで。今夜も君は僕だけのもの。
彼女の帰宅を待ちわびながら、いつしかタクヤはウトウトと眠りに落ちて行った。
◆
カンカンカン!
誰かが階段を駆けあがってくる。
(帰ってきた!)
急いで壁際にビーズクッションを二つセットし、そのひとつに身を沈め、もう一方を抱きかかえる。そっと壁に耳をあて、息をひそめて帰宅を待つ。
ドアが閉まり、カチャリとカギをかける音。
床を踏み、ダイニングのテーブルに何かを置いて、近づいてくる。そして壁ぎわでピタリと動きが止まるのを感じ、少し警戒する。
タラタッタンタッタンタン!
着信音が聞こえ、不機嫌そうな男の声がそれに続いた。
「はい。ナカモトっすけど」
マリエはこの時、隣の男の姓がナカモトであると初めて知った。下の名前は知らなかったが、そこに興味はなかった。ただ、盗聴癖があるらしき憐れなこの男に、今夜は何を聞かせてやろうかと考えながら、最近また増えてきた枝毛を、指先でクルクル回し始めた。